🔖 ブックマーク機能はLINEログインで利用できます
💬 AIブッダに相談
10,029
偈句数
9,999
日本語訳あり
9,982
パーリ原文
経典 19
テーマ 20
該当 10,029
すべて
智慧 4354
老い 931
苦しみ 772
正念 695
怒り 356
執着 350
死 350
業・因果 346
幸せ 337
自己 244
人間関係 243
家族 234
不安 168
仕事 165
渇愛 147
慈悲 115
無常 111
孤独 45
空 43
感謝 23
vinaya 2606
中部経典 2117
長部経典 1357
相応部経典 1136
増支部経典 857
jataka 563
スッタニパータ 522
ダンマパダ(法句経) 426
テーラガーター 211
テーリーガーター 68
クッダカパータ 57
イティヴッタカ 54
ウダーナ 34
金剛経 5
維摩経 5
般若心経 4
法華経 4
涅槃経 2
AN 1
業・因果
vinaya
趣旨一致
中
Atha kho keṇiyo jaṭilo buddhappamukhaṁ bhikkhusaṅghaṁ paṇītena khādanīyena bhojanīyena sahatthā santappetvā sampavāretvā bhagavantaṁ bhuttāviṁ onītapattapāṇiṁ ekamantaṁ nisīdi. Ekamantaṁ nisinnaṁ kho keṇiyaṁ jaṭilaṁ bhagavā imāhi gāthāhi anumodi— “Aggihuttamukhā yaññā, sāvittī chandaso mukhaṁ; Rājā mukhaṁ manussānaṁ, nadīnaṁ sāgaro mukhaṁ. Nakkhattānaṁ mukhaṁ cando, ādicco tapataṁ mukhaṁ; Puññaṁ ākaṅkhamānānaṁ, saṅgho ve yajataṁ mukhan”ti.
そのとき、結髪行者ケーニヤは、仏陀を筆頭とする比丘の僧伽(サンガ)を、精選された固形食・軟食にて自らの手でもてなし、満足させ奉った。世尊が食事を終えて鉢から手を離されると、ケーニヤは傍らに座した。傍らに座したケーニヤ結髪行者に対し、世尊はこの偈(げ)をもって随喜せられた。
「祭祀の首は火への供献、
詩頌(しじゅ)の首はサーヴィットリーの章句、
人の首は王、
河の首は海。
星宿(しょうしゅく)の首は月、
輝くものの首は太陽、
そして福徳(プンニャ)を求めて供養する者にとって、
僧伽こそは、まことに供養の首である。」
⚠ 出家者向けの文脈
業・因果
vinaya
趣旨一致
中
yassa nakkhamati, so bhāseyya. Sammataṁ saṅghena etehi nimittehi uposathappamukhaṁ. Khamati saṅghassa, tasmā tuṇhī, evametaṁ dhārayāmī’”ti. Tena kho pana samayena aññatarasmiṁ āvāse tadahuposathe navakā bhikkhū paṭhamataraṁ sannipatitvā— “na tāva therā āgacchantī”ti— Uposatho vikāle ahosi. “Anujānāmi, bhikkhave, tadahuposathe therehi bhikkhūhi paṭhamataraṁ sannipatitun”ti. Tena kho pana samayena rājagahe sambahulā āvāsā samānasīmā honti. Tattha bhikkhū vivadanti— “amhākaṁ āvāse uposatho karīyatu, amhākaṁ āvāse uposatho karīyatū”ti.
承認しない者があれば、発言すべきである。『僧伽(サンガ)はこれらの表示をもって布薩(ウポーサタ)の主催を承認した。僧伽はこれを認める。ゆえに沈黙する。私はかくのごとくこれを保持する』と。
さてそのとき、ある住処において、その日の布薩に際し、新参の比丘たちが先に集まって、「長老たちはまだ来られない」と言い、布薩が時ならぬ時刻に行われた。〔そこで世尊はこう仰せられた。〕「比丘たちよ、その日の布薩において、長老たる比丘たちが先に集まることを許す」と。
さてそのとき、王舎城(ラージャガハ)に多くの住処があり、同一の界(シーマー)に属していた。そこにおいて比丘たちが論争した。「我らの住処において布薩を行うべし」「我らの住処において布薩を行うべし」と。
⚠ 自己責任論に誤解されやすい,出家者向けの文脈
業・因果
vinaya
趣旨一致
中
Yā sā saṅghena sīmā sammatā samānasaṁvāsā ekuposathā, saṅgho taṁ sīmaṁ ticīvarena avippavāsaṁ sammannati. Yassāyasmato khamati etissā sīmāya ticīvarena avippavāsāya sammuti, so tuṇhassa; yassa nakkhamati, so bhāseyya. Sammatā sā sīmā saṅghena ticīvarena avippavāsā. Khamati saṅghassa, tasmā tuṇhī, evametaṁ dhārayāmī’”ti. Tena kho pana samayena bhikkhū bhagavatā ticīvarena avippavāsasammuti anuññātāti antaraghare cīvarāni nikkhipanti. Tāni cīvarāni nassantipi ḍayhantipi undūrehipi khajjanti. Bhikkhū duccoḷā honti lūkhacīvarā. Bhikkhū evamāhaṁsu— “Idha mayaṁ, āvuso, bhagavatā ticīvarena avippavāsasammuti anuññātāti antaraghare cīvarāni nikkhipimhā.
「かの僧伽(サンガ)によって結界(シーマー)として定められ、同一の住処を共にし、一つの布薩(ウポーサタ)を行う結界において、僧伽はその結界を、三衣(ティチーヴァラ)を離れて宿することなき結界として認許する。この結界において三衣を離れて宿することなき認許を可とする長老は黙しておられよ。可としない者は発言されよ。この結界は僧伽によって三衣を離れて宿することなき結界として認許された。僧伽はこれを可とした。ゆえに黙せり。かくのごとく我はこれを保持する」と。
さてその時、比丘たちは、「世尊によって三衣を離れて宿することなき認許が許された」として、俗家の内に衣(チーヴァラ)を置いた。それらの衣は失われることもあり、焼かれることもあり、またネズミに噛み荒らされることもあった。比丘たちは粗末な衣をまとい、みすぼらしい衣の者となった。そこで比丘たちはかく語った。
「友よ、われわれはここで、『世尊によって三衣を離れて宿することなき認許が許された』として、俗家の内に衣を置いた。
⚠ 自己責任論に誤解されやすい,出家者向けの文脈
業・因果
vinaya
趣旨一致
中
Addasāsuṁ kho te sakyakumārā upāliṁ kappakaṁ dūratova āgacchantaṁ. Disvāna upāliṁ kappakaṁ etadavocuṁ— “kissa, bhaṇe upāli, nivattesī”ti? “Idha me, ayyaputtā, nivattantassa etadahosi— “Suṭṭhu, bhaṇe upāli, akāsi yampi na nivatto. Caṇḍā kho sākiyā; iminā kumārā nippātitāti ghātāpeyyumpi tan”ti. Atha kho sakyakumārā upāliṁ kappakaṁ ādāya yena bhagavā tenupasaṅkamiṁsu, upasaṅkamitvā bhagavantaṁ abhivādetvā ekamantaṁ nisīdiṁsu. “mayaṁ, bhante, sākiyā nāma mānassino. Ayaṁ, bhante, upāli kappako amhākaṁ dīgharattaṁ paricārako.
そのとき、釈迦族の若き王子たちは、剃髪師ウパーリが遠くからやって来るのを目にした。目にして、剃髪師ウパーリに向かってこう言った。「ウパーリよ、そなたはいかなる訳あって引き返してきたのか」と。「御曹司方よ、ここで引き返そうとしたとき、わたくしにこのような思いが起こりました――『剃髪師ウパーリよ、引き返さなかったことは、じつによいことであった。釈迦族(サーキヤ)の方々は激しき気性の持ち主。この王子たちを出家せしめたとして、そなたを殺させるやも知れぬ』と」。そこで釈迦族の王子たちは、剃髪師ウパーリを伴い、世尊のもとへと近づいた。近づいて、世尊を礼拝し奉り、一方の脇に座した。「世尊よ、わたくしどもは釈迦族(サーキヤ)と申し、慢心(māna)の強き者どもにございます。世尊よ、この剃髪師ウパーリは、長きにわたりわたくしどもに仕えてまいりました者でございます。
業・因果
vinaya
趣旨一致
中
thullaṁ pācittiyena ca; Pāṭidesaniyañceva, dukkaṭañca dubbhāsitaṁ. Sīlācāravipatti ca, Diṭṭhiājīvavipatti; Yā ca aṭṭhā katākate, Tenetā sīlācāradiṭṭhiyā. Akatāya katāyāpi, katākatāyameva ca; Evaṁ navavidhā vuttā,
重(じゅう)なる波逸提(はいつだい)と、
波羅提舎尼(はらだいしゃに)と、突吉羅(とつきら)と、悪説(あくせつ)と。
戒行(かいぎょう)の違犯、
見(けん)と活命(かつめい)の違犯と、
なされたこととなされざることとに関わる八つのこと——
これらは戒・行・見によって生ずる。
なされざるものについても、なされたものについても、
またなされたるとなされざるとの両者においても。
かくのごとく、九種のものが説かれたり、
業・因果
vinaya
趣旨一致
中
Te vematikā vicinanti, vicinitvā passanti, passitvā—‘nassantete, vinassantete, ko tehi attho’ti—bhedapurekkhārā pavārenti. Āpatti thullaccayassa. Idha pana, bhikkhave, āgantukā bhikkhū suṇanti āvāsikānaṁ bhikkhūnaṁ āvāsikākāraṁ, āvāsikaliṅgaṁ, āvāsikanimittaṁ, āvāsikuddesaṁ, caṅkamantānaṁ padasaddaṁ, sajjhāyasaddaṁ, ukkāsitasaddaṁ, khipitasaddaṁ; sutvā vematikā honti—‘atthi nu kho āvāsikā bhikkhū, natthi nu kho’ti. Te vematikā na vicinanti, avicinitvā pavārenti. Āpatti dukkaṭassa. Te vematikā vicinanti, vicinitvā na passanti, apassitvā pavārenti. Anāpatti. Te vematikā vicinanti, vicinitvā passanti, passitvā ekato pavārenti. Anāpatti. Te vematikā vicinanti, vicinitvā passanti, passitvā pāṭekkaṁ pavārenti. Āpatti dukkaṭassa. Te vematikā vicinanti, vicinitvā passanti, passitvā—‘nassantete, vinassantete, ko tehi attho’ti bhedapurekkhārā pavārenti. Āpatti thullaccayassa. Idha pana, bhikkhave, āvāsikā bhikkhū passanti āgantukānaṁ bhikkhūnaṁ āgantukākāraṁ, āgantukaliṅgaṁ, āgantukanimittaṁ, āgantukuddesaṁ, aññātakaṁ pattaṁ, aññātakaṁ cīvaraṁ, aññātakaṁ nisīdanaṁ, pādānaṁ dhotaṁ, udakanissekaṁ; passitvā vematikā honti—‘atthi nu kho āgantukā bhikkhū, natthi nu kho’ti.
彼らは疑念を抱きながら調べ、調べてのちに見出し、見出してのちに——「かれらは滅びゆく、かれらは消えゆく、かれらと何の関わりがあろうか」と——破和合を意図して自恣(パーヴァーラナー)を行う。これは偸蘭遮(トゥッラッチャヤ)の罪である。
さてここに、比丘たちよ、来客の比丘たちが、住居の比丘たちの住居者らしい振る舞い、住居者らしい相(しるし)、住居者らしい様子、住居者らしい動作を聞き知る。すなわち、経行(きんひん)する者たちの足音、誦経(じゅきょう)の声、咳払いの声、くしゃみの声を。それを聞いて疑念を抱く——「住居の比丘たちはいるのであろうか、いないのであろうか」と。
彼らは疑念を抱きながら調べない。調べることなく自恣を行う。これは突吉羅(ドゥッカタ)の罪である。
彼らは疑念を抱きながら調べ、調べてのちに見出せない。見出せないままに自恣を行う。これは罪にあたらない。
彼らは疑念を抱きながら調べ、調べてのちに見出し、見出してのちに、ともに自恣を行う。これは罪にあたらない。
彼らは疑念を抱きながら調べ、調べてのちに見出し、見出してのちに、別々に自恣を行う。これは突吉羅の罪である。
彼らは疑念を抱きながら調べ、調べてのちに見出し、見出してのちに——「かれらは滅びゆく、かれらは消えゆく、かれらと何の関わりがあろうか」と——破和合を意図して自恣を行う。これは偸蘭遮の罪である。
さてここに、比丘たちよ、住居の比丘たちが、来客の比丘たちの来客らしい振る舞い、来客らしい相、来客らしい様子、来客らしい動作を見る。すなわち、見知らぬ鉢、見知らぬ衣(ころも)、見知らぬ坐具、洗われた足、水の滴りを。それを見て疑念を抱く——「来客の比丘たちはいるのであろうか、いないのであろうか」と。
⚠ 自己責任論に誤解されやすい,出家者向けの文脈
業・因果
vinaya
趣旨一致
中
Te vematikā na vicinanti, avicinitvā pavārenti. Āpatti dukkaṭassa. Te vematikā vicinanti, vicinitvā na passanti, apassitvā pavārenti. Anāpatti. Te vematikā vicinanti, vicinitvā passanti, passitvā ekato pavārenti. Anāpatti. Te vematikā vicinanti, vicinitvā passanti, passitvā pāṭekkaṁ pavārenti. Āpatti dukkaṭassa. Te vematikā vicinanti, vicinitvā passanti, passitvā—‘nassantete, vinassantete, ko tehi attho’ti—bhedapurekkhārā pavārenti. Āpatti thullaccayassa. Idha pana, bhikkhave, āvāsikā bhikkhū suṇanti āgantukānaṁ bhikkhūnaṁ āgantukākāraṁ, āgantukaliṅgaṁ, āgantukanimittaṁ, āgantukuddesaṁ, āgacchantānaṁ padasaddaṁ, upāhanapapphoṭanasaddaṁ, ukkāsitasaddaṁ, khipitasaddaṁ; sutvā vematikā honti—‘atthi nu kho āgantukā bhikkhū, natthi nu kho’ti. Te vematikā na vicinanti, avicinitvā pavārenti. Āpatti dukkaṭassa. Te vematikā vicinanti, vicinitvā na passanti, apassitvā pavārenti. Anāpatti. Te vematikā vicinanti, vicinitvā passanti, passitvā ekato pavārenti. Anāpatti.
彼らは疑念を抱きながらも審査せず、審査することなく自恣(パーヴァーラナー)を行う。これは突吉羅(ドゥッカタ)の罪過である。彼らは疑念を抱いて審査し、審査したが見出せず、見出せないまま自恣を行う。これは罪過なし。彼らは疑念を抱いて審査し、審査して見出し、見出した上で共同して自恣を行う。これは罪過なし。彼らは疑念を抱いて審査し、審査して見出し、見出した上でそれぞれ別々に自恣を行う。これは突吉羅の罪過である。彼らは疑念を抱いて審査し、審査して見出し、見出した上で、「あの者どもは亡ぶがよい、滅びるがよい、あの者どもと何の関わりがあろうか」と、分裂を意図して自恣を行う。これは偸蘭遮(トゥッラッチャヤ)の罪過である。
さて比丘たちよ、ここに在住の比丘たちが、来訪の比丘たちの来訪者らしい様子、来訪者らしい徴(しるし)、来訪者らしい兆候、来訪者らしい話し声を聞き、近づいてくる足音、履物を打ち鳴らす音、咳払いの音、鼻をかむ音を聞く。聞いて疑念を抱く――「来訪の比丘たちはいるのであろうか、いないのであろうか」と。彼らは疑念を抱きながらも審査せず、審査することなく自恣を行う。これは突吉羅の罪過である。彼らは疑念を抱いて審査し、審査したが見出せず、見出せないまま自恣を行う。これは罪過なし。彼らは疑念を抱いて審査し、審査して見出し、見出した上で共同して自恣を行う。これは罪過なし。
⚠ 自己責任論に誤解されやすい,出家者向けの文脈
業・因果
vinaya
趣旨一致
中
“Rakkhassetaṁ, moggallāna, vācaṁ. Idāni so moghapuriso attanāva attānaṁ pātukarissati. 1.3. Pañcasatthukathā Pañcime, moggallāna, satthāro santo saṁvijjamānā lokasmiṁ. Idha, moggallāna, ekacco satthā aparisuddhasīlo samāno ‘parisuddhasīlomhī’ti paṭijānāti ‘parisuddhaṁ me sīlaṁ pariyodātaṁ asaṅkiliṭṭhan’ti ca. Tamenaṁ sāvakā evaṁ jānanti— Mayañceva kho pana gihīnaṁ āroceyyāma, nāssassa manāpaṁ. Sammannati kho pana cīvarapiṇḍapātasenāsanagilānappaccayabhesajjaparikkhārena— yaṁ tumo karissati, tumova tena paññāyissatī’ti. Evarūpaṁ kho, moggallāna, satthāraṁ sāvakā sīlato rakkhanti;
「モッガッラーナよ、その言葉を慎むがよい。今やかの愚かな者は、みずからみずからを明らかにするであろう。
一・三 五種の師についての教説
モッガッラーナよ、この世に現に存在する師(サッター)は五種ある。
モッガッラーナよ、ここにある師は、戒(シーラ)が清浄ならざるにもかかわらず、『わが戒は清浄である』と称し、『わが戒は清らかにして明浄であり、汚れなきものである』と主張する。その師のことを弟子たちは次のように知っている——『もし我々がこのことを在家の者たちに告げるならば、師の心に適わぬことになろう。しかるに師は衣・食・臥坐具・病者のための薬と資具によって供養を受けている。師がいかなることをなすとも、師みずからがそれによって明らかとなるであろう』と。このような師を、モッガッラーナよ、弟子たちは戒の面において守護するのである。
⚠ 自己責任論に誤解されやすい,初手で出すと冷たく見える
業・因果
vinaya
趣旨一致
中
evarūpo ca pana satthā sāvakehi sīlato rakkhaṁ paccāsīsati. Puna caparaṁ, moggallāna, idhekacco satthā aparisuddhājīvo samāno ‘parisuddhājīvomhī’ti paṭijānāti ‘parisuddho me ājīvo pariyodāto asaṅkiliṭṭho’ti ca. Tamenaṁ sāvakā evaṁ jānanti— Mayañceva kho pana gihīnaṁ āroceyyāma, nāssassa manāpaṁ. Sammannati kho pana cīvarapiṇḍapātasenāsanagilānappaccayabhesajjaparikkhārena— yaṁ tumo karissati, tumova tena paññāyissatī’ti. Evarūpaṁ kho, moggallāna, satthāraṁ sāvakā ājīvato rakkhanti; evarūpo ca pana satthā sāvakehi ājīvato rakkhaṁ paccāsīsati. Puna caparaṁ, moggallāna, idhekacco satthā aparisuddhadhammadesano samāno ‘parisuddhadhammadesanomhī’ti paṭijānāti ‘parisuddhā me dhammadesanā pariyodātā asaṅkiliṭṭhā’ti ca. Tamenaṁ sāvakā evaṁ jānanti—
かくのごとき師を、弟子たちは戒(シーラ)によって守ろうとするのである。
さらにまた、モッガッラーナよ、ここにある師は、不浄なる生活(アージーヴァ)を送りながら、「わたしは清浄なる生活を送っている」と主張し、「わたしの生活は清浄にして明澄であり、汚れなきものである」と言う。弟子たちはかれについて、こう知っている――「もしわれわれが在家の者どもにこのことを告げるならば、かれの心に適うことにはなるまい。しかるにかれは、衣(チーヴァラ)・食(ピンダパータ)・臥坐具(セーナーサナ)・病者の資具たる薬品によって供養を受けている。あなたがなすことは、あなた自身によってこそ知られるであろう」と。かくのごとき師を、モッガッラーナよ、弟子たちは生活(アージーヴァ)によって守るのである。かくのごとき師は、弟子たちによって生活によって守られることを期待するのである。
さらにまた、モッガッラーナよ、ここにある師は、不浄なる法の教示(ダンマデーサナー)をなしながら、「わたしは清浄なる法の教示をなしている」と主張し、「わたしの法の教示は清浄にして明澄であり、汚れなきものである」と言う。弟子たちはかれについて、こう知っている――
⚠ 自己責任論に誤解されやすい
業・因果
vinaya
趣旨一致
中
Mayañceva kho pana gihīnaṁ āroceyyāma, nāssassa manāpaṁ. Sammannati kho pana cīvarapiṇḍapātasenāsanagilānappaccayabhesajjaparikkhārena— yaṁ tumo karissati, tumova tena paññāyissatī’ti. Evarūpaṁ kho, moggallāna, satthāraṁ sāvakā dhammadesanato rakkhanti; evarūpo ca pana satthā sāvakehi dhammadesanato rakkhaṁ paccāsīsati. Puna caparaṁ, moggallāna, idhekacco satthā aparisuddhaveyyākaraṇo samāno ‘parisuddhaveyyākaraṇomhī’ti paṭijānāti ‘parisuddhaṁ me veyyākaraṇaṁ pariyodātaṁ asaṅkiliṭṭhan’ti ca. Tamenaṁ sāvakā evaṁ jānanti— Mayañceva kho pana gihīnaṁ āroceyyāma, nāssassa manāpaṁ. Sammannati kho pana cīvarapiṇḍapātasenāsanagilānappaccayabhesajjaparikkhārena— yaṁ tumo karissati, tumova tena paññāyissatī’ti.
「もし我らがこのことを在家の者どもに告げれば、彼らの意に適うまい。しかるに彼は衣(こころ)・食(じき)・臥具(がぐ)・病者への薬品資具(やくほんしぐ)をもって供養を受けており、『そなたのなすことは、そなた自身によって知られるであろう』と言われるであろう」と。
モッガッラーナよ、このような師を、弟子たちは法の説示(ほうのせっじ)より守り護るのである。また、このような師は弟子たちより法の説示からの守護を望み待つのである。
さらにまた、モッガッラーナよ、ここにある師は、解答(べいやーからな)が清浄ならざるにもかかわらず、「我が解答は清浄である」と称し、「我が解答は清浄にして明浄(みょうじょう)、汚濁(おじょく)なし」と主張する。その師について、弟子たちはかくのごとく知る——「もし我らがこのことを在家の者どもに告げれば、彼らの意に適うまい。しかるに彼は衣・食・臥具・病者への薬品資具をもって供養を受けており、『そなたのなすことは、そなた自身によって知られるであろう』と言われるであろう」と。
⚠ 自己責任論に誤解されやすい
業・因果
vinaya
趣旨一致
中
Evarūpaṁ kho, moggallāna, satthāraṁ sāvakā veyyākaraṇato rakkhanti; evarūpo ca pana satthā sāvakehi veyyākaraṇato rakkhaṁ paccāsīsati. Puna caparaṁ, moggallāna, idhekacco satthā aparisuddhañāṇadassano samāno ‘parisuddhañāṇadassanomhī’ti paṭijānāti ‘parisuddhaṁ me ñāṇadassanaṁ pariyodātaṁ asaṅkiliṭṭhan’ti ca. Tamenaṁ sāvakā evaṁ jānanti— Mayañceva kho pana gihīnaṁ āroceyyāma, nāssassa manāpaṁ. Sammannati kho pana cīvarapiṇḍapātasenāsanagilānappaccayabhesajjaparikkhārena— yaṁ tumo karissati, tumova tena paññāyissatī’ti. Evarūpaṁ kho, moggallāna, satthāraṁ sāvakā ñāṇadassanato rakkhanti; evarūpo ca pana satthā sāvakehi ñāṇadassanato rakkhaṁ paccāsīsatīti. Ahaṁ kho pana, moggallāna, parisuddhasīlo samāno ‘parisuddhasīlomhī’ti paṭijānāmi ‘parisuddhaṁ me sīlaṁ pariyodātaṁ asaṅkiliṭṭhan’ti ca.
「モッガッラーナよ、このような師を、弟子たちは解説(veyyākaraṇa)によって守る。またこのような師は、弟子たちによって解説によって守られることを望む。
さらにまたモッガッラーナよ、ここに或る師が、智見(ñāṇadassana)が清浄ならざるにもかかわらず、『わが智見は清浄である』と称し、『わが智見は清らかにして汚れなく、染汚なし』と宣言する場合がある。その師を弟子たちはかく知る――『われわれがこのことを在家者たちに告げるならば、師の御心には適うまい。されど師は衣・食・臥坐具・病者のための薬品・資具によって供養されている。師が何をなそうとも、師自身がそれによって知られることになろう』と。モッガッラーナよ、このような師を、弟子たちは智見によって守る。またこのような師は、弟子たちによって智見によって守られることを望む。
しかるにわれは、モッガッラーナよ、戒(sīla)が清浄であって、『わが戒は清浄である』と称し、『わが戒は清らかにして汚れなく、染汚なし』と宣言するのである。」
⚠ 自己責任論に誤解されやすい
業・因果
vinaya
趣旨一致
中
Dve pabbatakūṭā samāgantvā taṁ silaṁ sampaṭicchiṁsu. Tato papatikā uppatitvā bhagavato pāde ruhiraṁ uppādesi. Atha kho bhagavā uddhaṁ ulloketvā devadattaṁ etadavoca— “bahuṁ tayā, moghapurisa, apuññaṁ pasutaṁ, yaṁ tvaṁ duṭṭhacitto vadhakacitto tathāgatassa ruhiraṁ uppādesī”ti. Atha kho bhagavā bhikkhū āmantesi— “idaṁ, bhikkhave, devadattena paṭhamaṁ ānantariyaṁ kammaṁ upacitaṁ, yaṁ duṭṭhacittena vadhakacittena tathāgatassa ruhiraṁ uppāditan”ti. Assosuṁ kho bhikkhū— “devadattena kira bhagavato vadho payutto”ti. Te ca bhikkhū bhagavato vihārassa parito parito caṅkamanti uccāsaddā mahāsaddā sajjhāyaṁ karontā, bhagavato rakkhāvaraṇaguttiyā. Assosi kho bhagavā uccāsaddaṁ mahāsaddaṁ sajjhāyasaddaṁ.
二つの山の頂きが合わさって、その岩を受け止めた。そこから飛び散った破片が跳ね上がり、世尊の御足より血を流させた。そこで世尊は上を仰ぎ見て、提婆達多(デーヴァダッタ)にこのように仰せられた。
「愚かなる者よ、汝は多くの罪業(アプンニャ)を積み重ねた。汝が悪意(ドゥッタチッタ)をもって、害意(ヴァダカチッタ)をもって、如来(タターガタ)の御身より血を流させたからである」と。
そこで世尊は比丘たちに告げられた。
「比丘たちよ、これが提婆達多の積み重ねた第一の無間業(アーナンタリヤ・カンマ)である。すなわち、悪意をもって、害意をもって、如来の御身より血を流させたことである」と。
比丘たちはこれを聞き伝えた。「提婆達多が世尊を害しようとしたとのことだ」と。そして比丘たちは世尊の住まわれる精舎の周りをぐるりと巡り歩き、声高く読誦(サッジャーヤ)を唱えながら、世尊をお護り申し上げた。世尊はその声高い、大きな読誦の声をお聞きになった。
⚠ 自己責任論に誤解されやすい,初手で出すと冷たく見える,出家者向けの文脈
業・因果
vinaya
趣旨一致
中
Idha, bhikkhave, ekacco satthā aparisuddhasīlo samāno ‘parisuddhasīlomhī’ti paṭijānāti ‘parisuddhaṁ me sīlaṁ pariyodātaṁ asaṅkiliṭṭhan’ti ca. Tamenaṁ sāvakā evaṁ jānanti— Mayañceva kho pana gihīnaṁ āroceyyāma, nāssassa manāpaṁ. Sammannati kho pana cīvarapiṇḍapātasenāsanagilānappaccayabhesajjaparikkhārena— yaṁ tumo karissati, tumova tena paññāyissatī’ti. Evarūpaṁ kho, bhikkhave, satthāraṁ sāvakā sīlato rakkhanti; evarūpo ca pana satthā sāvakehi sīlato rakkhaṁ paccāsīsati. Puna caparaṁ, bhikkhave, idhekacco satthā aparisuddhājīvo samāno …pe… aparisuddhadhammadesano samāno …pe… aparisuddhaveyyākaraṇo samāno …pe…
比丘たちよ、ここにある師は、戒(シーラ)が清浄ならざるにもかかわらず、「わが戒は清浄である」と称し、「わが戒は清らかに輝き、汚れなきものである」と主張する。その師の弟子たちは、次のように知っている——「もし我々が在家の者どもにこのことを告げれば、師のお気に召すまい。しかるに師は衣(チーヴァラ)・食(ピンダパータ)・臥具(セーナーサナ)・病者のための薬品・諸々の必需品をもって供養を受けておられる。師がなさることは、師ご自身によって明らかとなるであろう」と。比丘たちよ、かかる師を弟子たちは戒によって護る。かかる師はまた、弟子たちから戒による庇護を期待する。
さらにまた、比丘たちよ、ここにある師は、生活(アージーヴァ)が清浄ならざるにもかかわらず……乃至……法の説示(ダンマデーサナー)が清浄ならざるにもかかわらず……乃至……答弁(ヴェッヤーカラナ)が清浄ならざるにもかかわらず……
⚠ 自己責任論に誤解されやすい
業・因果
vinaya
趣旨一致
中
aparisuddhañāṇadassano samāno ‘parisuddhañāṇadassanomhī’ti paṭijānāti ‘parisuddhaṁ me ñāṇadassanaṁ pariyodātaṁ asaṅkiliṭṭhan’ti ca. Tamenaṁ sāvakā evaṁ jānanti— Mayañceva kho pana gihīnaṁ āroceyyāma, nāssassa manāpaṁ. Sammannati kho pana cīvarapiṇḍapātasenāsanagilānappaccayabhesajjaparikkhārena— yaṁ tumo karissati, tumova tena paññāyissatī’ti. Evarūpaṁ kho, bhikkhave, satthāraṁ sāvakā ñāṇadassanato rakkhanti; evarūpo ca pana satthā sāvakehi ñāṇadassanato rakkhaṁ paccāsīsati. Ahaṁ kho pana, bhikkhave, parisuddhasīlo samāno ‘parisuddhasīlomhī’ti paṭijānāmi ‘parisuddhaṁ me sīlaṁ pariyodātaṁ asaṅkiliṭṭhan’ti ca. Na ca maṁ sāvakā sīlato rakkhanti; na cāhaṁ sāvakehi sīlato rakkhaṁ paccāsīsāmi.
清浄ならざる智見(ñāṇadassana)を有しながら、「われは清浄ならざる智見を有する」とは認めず、「わが智見は清浄にして、明浄であり、汚れなきものである」と称する者がいる。その師の弟子たちはこのように知る——「もしわれわれが在家の人々にこのことを告げるならば、師の心に適うまい。しかも師は衣・食・臥坐具・病者への薬品・資具をもって供養を受けている。師が何をなすかは、師自身によってこそ明らかにされるであろう」と。比丘たちよ、このような師を、弟子たちは智見に関して守護するのである。またこのような師は、弟子たちによって智見に関して守護されることを期待するのである。
しかるに、比丘たちよ、われは清浄なる戒(sīla)を有するがゆえに、「われは清浄なる戒を有する」と認め、「わが戒は清浄にして、明浄であり、汚れなきものである」と称する。弟子たちはわれを戒に関して守護しない。またわれも、弟子たちによって戒に関して守護されることを期待しない。
⚠ 自己責任論に誤解されやすい
業・因果
vinaya
趣旨一致
中
Asandiddho ca akkhāti, Pucchito ca na kuppati; Sa ve tādisako bhikkhu, Dūteyyaṁ gantumarahatīti. Aṭṭhahi, bhikkhave, asaddhammehi abhibhūto pariyādinnacitto devadatto āpāyiko nerayiko kappaṭṭho atekiccho. Lābhena, bhikkhave, abhibhūto pariyādinnacitto devadatto āpāyiko nerayiko kappaṭṭho atekiccho; alābhena, bhikkhave …pe… ayasena, bhikkhave …pe… pāpamittatāya bhikkhave, abhibhūto pariyādinnacitto devadatto āpāyiko nerayiko kappaṭṭho atekiccho— Sādhu, bhikkhave, bhikkhu uppannaṁ lābhaṁ abhibhuyya abhibhuyya vihareyya, uppannaṁ alābhaṁ …pe…
疑わず語り、問われて怒らず、
かくのごとき比丘こそ、
使いとして赴くに足る者なり。
諸比丘よ、八つの非法(あさっぽう)に圧倒され、心を奪われたるデーヴァダッタは、悪趣に堕ち、地獄に生まれ、劫を経るまでそこに留まり、救いがたき者となりぬ。
諸比丘よ、利得(らいとく)に圧倒され、心を奪われたるデーヴァダッタは、悪趣に堕ち、地獄に生まれ、劫を経るまでそこに留まり、救いがたき者となりぬ。不利得(ふりとく)に〔圧倒され……〕。不名誉に〔圧倒され……〕。諸比丘よ、悪友(あくゆう)に圧倒され、心を奪われたるデーヴァダッタは、悪趣に堕ち、地獄に生まれ、劫を経るまでそこに留まり、救いがたき者となりぬ。
諸比丘よ、比丘は、生じたる利得を繰り返し繰り返し克服して住するがよい。生じたる不利得を〔繰り返し克服して……〕。
⚠ 希死念慮の場面では使わない,出家者向けの文脈
業・因果
vinaya
趣旨一致
中
Atha kho te bhikkhū bhagavato etamatthaṁ ārocesuṁ. “Saccaṁ kira, bhikkhave, bhikkhū— “Saccaṁ, bhagavā”ti. Vigarahi buddho bhagavā …pe… “kathañhi nāma te, bhikkhave, moghapurisā—dasavassamhā dasavassamhāti—bālā abyattā upasampādessanti. Dissanti upajjhāyā bālā, saddhivihārikā paṇḍitā, dissanti upajjhāyā abyattā saddhivihārikā byattā, dissanti upajjhāyā appassutā, saddhivihārikā bahussutā, dissanti upajjhāyā duppaññā, saddhivihārikā paññavanto. Netaṁ, bhikkhave, appasannānaṁ vā pasādāya …pe… vigarahitvā …pe… dhammiṁ kathaṁ katvā bhikkhū āmantesi— “na, bhikkhave, bālena abyattena upasampādetabbo.
そのとき、かの比丘たちは、世尊にこの事の次第を申し上げた。「比丘たちよ、比丘たちが〔そのようなことを〕したというのは、まことのことか」と〔世尊は問われた〕。「まことでございます、世尊よ」と〔比丘たちは答えた〕。覚者(ブッダ)にして世尊は、これを叱責された。……(中略)……
「比丘たちよ、いったいいかなることぞ、かの愚かなる人々は——〔戒臘〕十年より〔数えよ〕、十年よりと言いながら——愚かにして未熟なる者が〔他者に〕具足戒(うぐそくかい)を授けようとするとは。比丘たちよ、和尚(おしょう)は愚かにして、依止弟子(えしでし)は賢明なる場合も見られ、和尚は未熟にして、依止弟子は熟達せる場合も見られ、和尚は寡聞にして、依止弟子は多聞なる場合も見られ、和尚は劣慧にして、依止弟子は智慧ある場合も見られる。比丘たちよ、これは、いまだ信を生じていない者に信を生ぜしめることにもならず……(中略)……」。かくして叱責し終えて……(中略)……、法にかなった法話(ほうわ)をなされたのち、比丘たちに告げてこう仰せられた——
「比丘たちよ、愚かにして未熟なる者によって、具足戒を授けてはならない。」
⚠ 自己責任論に誤解されやすい,初手で出すと冷たく見える,出家者向けの文脈
業・因果
vinaya
趣旨一致
中
Aduṭṭhullaṁ āpattiṁ aduṭṭhullā āpattīti dīpenti. Te imehi aṭṭhārasahi vatthūhi na apakassanti, na avapakassanti, na āveniṁ uposathaṁ karonti, na āveniṁ pavāraṇaṁ karonti, na āveniṁ saṅghakammaṁ karonti. Ettāvatā kho, upāli, saṅgho samaggo hotī”ti. “Samaggaṁ pana, bhante, saṅghaṁ bhinditvā kiṁ so pasavatī”ti? “Samaggaṁ kho, upāli, saṅghaṁ bhinditvā kappaṭṭhikaṁ kibbisaṁ pasavati, kappaṁ nirayamhi paccatīti. Āpāyiko nerayiko, Kappaṭṭho saṅghabhedako; Vaggarato adhammaṭṭho, Yogakkhemā padhaṁsati; Saṅghaṁ samaggaṁ bhinditvā,
〔ウパーリよ、〕軽罪(アドゥッタッラー・アーパッティ)は軽罪として示し、重罪(ドゥッタッラー・アーパッティ)は重罪として示す。彼らはこれら十八事項において、〔僧伽を〕分裂させず、離脱させず、別々に布薩(ウポーサタ)を行わず、別々に自恣(パワーラナー)を行わず、別々に僧伽の羯磨(サンガカンマ)を行わない。ウパーリよ、これだけのことによって、僧伽は和合するのである。」
「では、尊師よ、和合せる僧伽を破壊した者は、いかなる〔報い〕を受けるのでしょうか。」
「ウパーリよ、和合せる僧伽を破壊した者は、一劫(カッパ)のあいだ続く罪業(キッビサ)を生じ、一劫のあいだ地獄(ニラヤ)において焼かれるのである。」
悪趣(アーパーヤ)に堕ち、地獄に生まれ、
一劫のあいだ、破和合僧(サンガベーダカ)の者は〔苦しみを〕受く。
分裂を好み、正法(ダンマ)に背き、
安穏(ヨーガックヘーマ)の境地を損なう者は、
和合せる僧伽を破壊して、
⚠ 自己責任論に誤解されやすい,希死念慮の場面では使わない
業・因果
vinaya
趣旨一致
中
Kappaṁ nirayamhi paccatī”ti. “Bhinnaṁ pana, bhante, saṅghaṁ samaggaṁ katvā kiṁ so pasavatī”ti? “Bhinnaṁ kho, upāli, saṅghaṁ samaggaṁ katvā brahmaṁ puññaṁ pasavati, kappaṁ saggamhi modatīti. Sukhā saṅghassa sāmaggī, samaggānañca anuggaho; Samaggarato dhammaṭṭho, yogakkhemā na dhaṁsati; Saṅghaṁ samaggaṁ katvāna, kappaṁ saggamhi modatī”ti. “Siyā nu kho, bhante, saṅghabhedako āpāyiko, nerayiko, kappaṭṭho, atekiccho”ti?
「〔破和合僧の者は〕一劫(こう)の間、地獄において苦しみを受ける」と。「されば、尊者よ、破れた僧伽(そうぎゃ)を和合せしめた者は、いかなる果報を生じるのでありましょうか」と。「ウパーリよ、破れた僧伽を和合せしめた者は、梵天に比すべき大いなる功徳(くどく)を生じ、一劫の間、天上において喜びを享受するのである。
僧伽の和合は楽しく、
和合せる者たちへの助けもまた然り。
和合を喜び、法に住する者は、
安穏(あんのん)より落ちることなし。
僧伽を和合せしめた者は、
一劫の間、天上において喜びを享受する」と。
「尊者よ、破和合僧の者は、悪趣(あくしゅ)に堕し、地獄に生じ、一劫の間そこに留まり、救いの術なき者となることがあるのでありましょうか」と。
⚠ 自己責任論に誤解されやすい,希死念慮の場面では使わない
業・因果
vinaya
趣旨一致
中
kathañhi nāma te, bhikkhave, moghapurisā tālataruṇe chedāpetvā tālapattapādukāyo dhāressanti; tāni tālataruṇāni chinnāni milāyanti. Jīvasaññino hi, bhikkhave, manussā rukkhasmiṁ. Netaṁ, bhikkhave, appasannānaṁ vā pasādāya …pe… vigarahitvā …pe… dhammiṁ kathaṁ katvā bhikkhū āmantesi— “na, bhikkhave, tālapattapādukā dhāretabbā. Yo dhāreyya, āpatti dukkaṭassā”ti. Tena kho pana samayena chabbaggiyā bhikkhū— “bhagavatā tālapattapādukā paṭikkhittā”ti—
「比丘たちよ、いったいなぜ、かの愚かな人々は、棕櫚(タール)の若木を切らせて、棕櫚の葉の草履を履くのであろうか。切られた棕櫚の若木は枯れてしまうのである。比丘たちよ、人々は樹木に生命があると感じているのである。」
これは、信じていない者をして信ぜしめることにもならず……(乃至)……と呵責して……(乃至)……ふさわしい教誡(カター)をなし、比丘たちに告げて言われた。
「比丘たちよ、棕櫚の葉の草履を履いてはならない。履く者は、悪作(ドゥッカタ)の罪を犯すことになる。」
さてその頃、六群比丘(チャッバッギヤ)たちは、「世尊によって棕櫚の葉の草履は禁じられた」と知りながら——
⚠ 自己責任論に誤解されやすい,初手で出すと冷たく見える,出家者向けの文脈
業・因果
vinaya
趣旨一致
中
Idha pana, bhikkhave, āgantukā bhikkhū passanti āvāsikānaṁ bhikkhūnaṁ āvāsikākāraṁ, āvāsikaliṅgaṁ, āvāsikanimittaṁ, āvāsikuddesaṁ, supaññattaṁ mañcapīṭhaṁ, bhisibibbohanaṁ, pānīyaṁ paribhojanīyaṁ sūpaṭṭhitaṁ, pariveṇaṁ susammaṭṭhaṁ; passitvā vematikā honti—‘atthi nu kho āvāsikā bhikkhū natthi nu kho’ti. avicinitvā uposathaṁ karonti. Āpatti dukkaṭassa. Te vematikā vicinanti; vicinitvā na passanti; apassitvā uposathaṁ karonti. Anāpatti. Te vematikā vicinanti; vicinitvā passanti;
さて比丘たちよ、ここに客比丘(āgantukā bhikkhū)たちが、常住比丘(āvāsikā bhikkhū)たちの常住のありさま、常住のしるし、常住の表徴、常住の標示——すなわち、整えられた臥床と椅子、褥と枕、飲用水と用水が十分に備えられていること、庭が清く掃き清められていること——を見たとする。これを見て、彼らは疑いを抱く。「常住の比丘たちはいるのであろうか、いないのであろうか」と。〔そのまま〕審べることなく布薩(uposatha)を行う。これは悪作(dukkaṭa)の罪を犯す。
彼らが疑いを抱きつつも審べ、審べてもなお〔常住の比丘たちを〕見出さず、見出さずして布薩を行う。これは罪を犯さない。
彼らが疑いを抱きつつも審べ、審べて〔常住の比丘たちを〕見出す。
⚠ 自己責任論に誤解されやすい,出家者向けの文脈
経典データの出典: SuttaCentral(CC0ライセンス)