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💬 AIブッダに相談
10,029
偈句数
9,999
日本語訳あり
9,982
パーリ原文
経典 19
テーマ 20
該当 337
すべて
智慧 4354
老い 931
苦しみ 772
正念 695
怒り 356
執着 350
死 350
業・因果 346
幸せ 337
自己 244
人間関係 243
家族 234
不安 168
仕事 165
渇愛 147
慈悲 115
無常 111
孤独 45
空 43
感謝 23
vinaya 2606
中部経典 2117
長部経典 1357
相応部経典 1136
増支部経典 857
jataka 563
スッタニパータ 522
ダンマパダ(法句経) 426
テーラガーター 211
テーリーガーター 68
クッダカパータ 57
イティヴッタカ 54
ウダーナ 34
金剛経 5
維摩経 5
般若心経 4
法華経 4
涅槃経 2
AN 1
幸せ
vinaya
趣旨一致
中
yo pacchā gāmato piṇḍāya paṭikkameyya, sacassa bhuttāvaseso, sace ākaṅkheyya bhuñjeyya, no ce ākaṅkheyya appaharite vā chaḍḍeyya, appāṇake vā udake opilāpeyya; so āsanaṁ uddhareyya, pādodakaṁ pādapīṭhaṁ pādakathalikaṁ paṭisāmeyya, avakkārapātiṁ dhovitvā paṭisāmeyya, pānīyaṁ paribhojanīyaṁ paṭisāmeyya, bhattaggaṁ sammajjeyya; yo passeyya pānīyaghaṭaṁ vā paribhojanīyaghaṭaṁ vā vaccaghaṭaṁ vā rittaṁ tucchaṁ so upaṭṭhāpeyya; sacassa hoti avisayhaṁ, hatthavikārena dutiyaṁ āmantetvā hatthavilaṅghakena upaṭṭhāpeyya; na tveva tappaccayā vācaṁ bhindeyya— evaṁ kho mayaṁ samaggā sammodamānā avivadamānā phāsukaṁ vassaṁ vaseyyāma, na ca piṇḍakena kilameyyāmā”ti. Atha kho te bhikkhū aññamaññaṁ neva ālapiṁsu, na sallapiṁsu. Āciṇṇaṁ kho panetaṁ vassaṁvuṭṭhānaṁ bhikkhūnaṁ bhagavantaṁ dassanāya upasaṅkamituṁ. Atha kho te bhikkhū vassaṁvuṭṭhā temāsaccayena senāsanaṁ saṁsāmetvā pattacīvaramādāya yena sāvatthi tena pakkamiṁsu. Anupubbena yena sāvatthi jetavanaṁ anāthapiṇḍikassa ārāmo yena bhagavā tenupasaṅkamiṁsu, upasaṅkamitvā bhagavantaṁ abhivādetvā ekamantaṁ nisīdiṁsu.
村から托鉢より戻った者は、もし食べ残しがあれば、望むならばそれを食べてもよく、望まぬならば、草のない所に捨てるか、あるいは生き物のいない水に流すがよい。その者は座具を片づけ、足洗いの水・足台・足拭きを所定の場所に納め、残飯入れの鉢を洗って納め、飲料水・用水を整え、食堂を掃き清めるがよい。もし飲料水の壺、用水の壺、あるいは厠の壺が空になり尽きているのを見た者は、これを満たすがよい。もしそれが一人では難しければ、手で合図をして別の者を呼び、手を貸し合って満たすがよい。しかし、そのことのために言葉を発してはならない。——このようにして我らは和合し、打ち解け合い、諍うことなく、安楽に雨安居(うあんご)を過ごし、また托鉢によって疲れることもあるまい」と。
かくして、かの比丘たちは互いに語りかけることもなく、言葉を交わすこともなかった。さて、雨安居を終えた比丘たちが世尊にまみえるために参上することは、つねに行われてきた習わしである。
かくして、かの比丘たちは雨安居を終え、三月の後、臥坐処(がざしょ)を整え、鉢と衣を持って舎衛城(シャーヴァッティー)へと旅立った。次第に歩みを進め、舎衛城の祇陀林(ジェータヴァナ)なる給孤独(アナーターピンディカ)の園へ、世尊のおられるところへと参り来った。参り来たりて、世尊を礼拝し、かたわらに座した。
⚠ 自己責任論に誤解されやすい,出家者向けの文脈
幸せ
vinaya
趣旨一致
中
“ayaṁ kho vālikārāmo ramaṇīyo appasaddo appanigghoso. Yannūna mayaṁ vālikārāme imaṁ adhikaraṇaṁ vūpasameyyāmā”ti. Atha kho therā bhikkhū vālikārāmaṁ agamaṁsu— Atha kho āyasmā revato saṅghaṁ ñāpesi— “Suṇātu me, bhante, saṅgho. Yadi saṅghassa pattakallaṁ, ahaṁ āyasmantaṁ sabbakāmiṁ vinayaṁ puccheyyan”ti. Āyasmā sabbakāmī saṅghaṁ ñāpesi— “Suṇātu me, āvuso, saṅgho. Yadi saṅghassa pattakallaṁ, ahaṁ revatena vinayaṁ puṭṭho vissajjeyyan”ti.
「この砂林園(ヴァーリカーラーマ)は、まことに心地よく、物音少なく、喧騒もない。ここ砂林園にて、我らはこの諍事(アディカラナ)を鎮静せしめてはいかがであろうか」と。
かくして長老の比丘たちは、砂林園へと赴いた。
そこで尊者レーヴァタは僧伽(サンガ)に告げた。
「大徳よ、僧伽よ、聴かれよ。もし僧伽にとって時宜適えりと思われるならば、われは尊者サッバカーミーに律(ヴィナヤ)について問いただしたいと思う」と。
尊者サッバカーミーもまた僧伽に告げた。
「友よ、僧伽よ、聴かれよ。もし僧伽にとって時宜適えりと思われるならば、われはレーヴァタより律について問われ、その答えを述べたいと思う」と。
幸せ
vinaya
趣旨一致
中
Tena kho pana samayena bārāṇasiyaṁ yaso nāma kulaputto seṭṭhiputto sukhumālo hoti. Tassa tayo pāsādā honti— eko hemantiko, eko gimhiko, eko vassiko. So vassike pāsāde cattāro māse nippurisehi tūriyehi paricārayamāno na heṭṭhāpāsādaṁ orohati. Atha kho yasassa kulaputtassa pañcahi kāmaguṇehi samappitassa samaṅgībhūtassa paricārayamānassa paṭikacceva niddā okkami, parijanassapi niddā okkami, sabbarattiyo ca telapadīpo jhāyati. Atha kho yaso kulaputto paṭikacceva pabujjhitvā addasa sakaṁ parijanaṁ supantaṁ— aññissā kacche vīṇaṁ, aññissā kaṇṭhe mudiṅgaṁ, aññissā kacche āḷambaraṁ, aññaṁ vikesikaṁ, aññaṁ vikkheḷikaṁ, aññā vippalapantiyo, hatthappattaṁ susānaṁ maññe. Disvānassa ādīnavo pāturahosi, nibbidāya cittaṁ saṇṭhāsi. Atha kho yaso kulaputto udānaṁ udānesi— “upaddutaṁ vata bho, upassaṭṭhaṁ vata bho”ti.
その頃、バーラーナシーに、ヤサという名の良家の子息がいた。長者の息子であり、きわめて繊細な育ちであった。彼には三つの楼閣があった――一つは冬のため、一つは夏のため、一つは雨季のためのものであった。彼は雨季の楼閣において、四ヶ月のあいだ、女人たちの奏でる音楽(tūriya)に侍られながら、楼閣の下に降りることなく過ごした。
さて、ヤサ良家の子息が、五つの欲楽の対象(pañca kāmaguṇa)を具足し、それらに満たされながら侍られているとき、早くも眠りが彼を襲い、侍女たちもまた眠りに落ちた。そして夜もすがら、油の灯明が燃え続けていた。
ヤサ良家の子息は、ふと早めに目を覚まし、眠りに就いている己の侍女たちの姿を見た――ある者は脇の下に琴(vīṇā)を抱き、ある者は首に小鼓(mudiṅga)をかけ、ある者は脇の下に太鼓(āḷambara)を挟み、ある者は髪を乱し、ある者はよだれを垂らし、ある者はうわ言をつぶやいていた。まるで手の届くところに墓場を見るかのようであった。
それを見て、彼の心に厭離(ādīnava)の思いが現れ、心は厭倦(nibbidā)の上に静まり立った。
そこでヤサ良家の子息は、感興の言葉(udāna)を発した。
「ああ、わずらわしきかな。ああ、苦しきかな」と。
幸せ
vinaya
趣旨一致
中
Abhabbo kho yaso kulaputto hīnāyāvattitvā kāme paribhuñjituṁ, seyyathāpi pubbe agārikabhūto; yannūnāhaṁ taṁ iddhābhisaṅkhāraṁ paṭippassambheyyan”ti. Addasā kho seṭṭhi gahapati yasaṁ kulaputtaṁ nisinnaṁ disvāna, yasaṁ kulaputtaṁ etadavoca— “mātā te, tāta yasa, paridevasokasamāpannā, dehi mātuyā jīvitan”ti. Atha kho yaso kulaputto bhagavantaṁ ullokesi. Atha kho bhagavā seṭṭhiṁ gahapatiṁ etadavoca— “taṁ kiṁ maññasi, gahapati, yassa sekkhena ñāṇena sekkhena dassanena dhammo diṭṭho vidito seyyathāpi tayā, tassa yathādiṭṭhaṁ yathāviditaṁ bhūmiṁ paccavekkhantassa anupādāya āsavehi cittaṁ vimuttaṁ. Bhabbo nu kho so, gahapati, hīnāyāvattitvā kāme paribhuñjituṁ seyyathāpi pubbe agārikabhūto”ti? “No hetaṁ, bhante”. “Yasassa kho, gahapati, kulaputtassa sekkhena ñāṇena sekkhena dassanena dhammo diṭṭho vidito seyyathāpi tayā, tassa yathādiṭṭhaṁ yathāviditaṁ bhūmiṁ paccavekkhantassa anupādāya āsavehi cittaṁ vimuttaṁ.
「ヤサ良家の子は、かつて在家であった頃のように、低き道に戻りて欲楽を享受することは、もはや叶わぬことである。さあ、この神通(iddhi)の構築を静めるとしよう」と。
長者(seṭṭhi)なる居士は、ヤサ良家の子が座しているのを見て、ヤサ良家の子にこう告げた——「タータよ、ヤサよ、汝の母は悲嘆(parideva)と憂愁(soka)に沈んでおる。母に命を与えてやってくれ」と。
そこでヤサ良家の子は、世尊を仰ぎ見た。
そこで世尊は、長者なる居士にこう仰せになった——「居士よ、汝はいかに思うか。有学(sekkha)の智(ñāṇa)と有学の見(dassana)とをもって法(dhamma)を見、了知したる者、汝の場合のごとくに、その見たるところ、知りたるところの境地を観察しながら、取著(upādāna)することなく諸漏(āsava)より心が解脱した者、その者が、かつて在家であった頃のように、低き道に戻りて欲楽を享受することは叶うであろうか」と。
「世尊よ、それは叶いませぬ」と。
「居士よ、まさにこのヤサ良家の子もまた、有学の智と有学の見とをもって法を見、了知したこと、汝の場合のごとくであり、その見たるところ、知りたるところの境地を観察しながら、取著することなく諸漏より心が解脱したのである。」
幸せ
vinaya
趣旨一致
中
Yo bhikkhu pādaṁ vā pādārahaṁ vā atirekapādaṁ vā adinnaṁ theyyasaṅkhātaṁ ādiyati, assamaṇo hoti asakyaputtiyo. Seyyathāpi nāma paṇḍupalāso bandhanā pavutto abhabbo haritatthāya; evameva bhikkhu pādaṁ vā pādārahaṁ vā atirekapādaṁ vā adinnaṁ theyyasaṅkhātaṁ ādiyitvā assamaṇo hoti asakyaputtiyo. Taṁ te yāvajīvaṁ akaraṇīyaṁ. Upasampannena bhikkhunā sañcicca pāṇo jīvitā na voropetabbo, antamaso kunthakipillikaṁ upādāya. Yo bhikkhu sañcicca manussaviggahaṁ jīvitā voropeti, antamaso gabbhapātanaṁ upādāya, assamaṇo hoti asakyaputtiyo. Seyyathāpi nāma puthusilā dvedhā bhinnā appaṭisandhikā hoti; evameva bhikkhu sañcicca manussaviggahaṁ jīvitā voropetvā assamaṇo hoti asakyaputtiyo. Taṁ te yāvajīvaṁ akaraṇīyaṁ. Upasampannena bhikkhunā uttarimanussadhammo na ullapitabbo, antamaso ‘suññāgāre abhiramāmī’ti.
比丘にして一パーダ(pāda)、あるいは一パーダに相当するもの、あるいは一パーダを超えるものを、与えられざるままに、盗みとみなされるかたちで取る者は、沙門(samaṇa)にあらず、釈迦の子にあらず。
たとえば、枯れ葉が枝より離れ落ちて、ふたたび青々と茂ることあたわざるがごとく、まさにそのように、一パーダ、あるいは一パーダに相当するもの、あるいは一パーダを超えるものを、与えられざるままに、盗みとみなされるかたちで取りたる比丘は、沙門にあらず、釈迦の子にあらず。これは汝にとって、生涯にわたりなすべからざることなり。
具足戒(upasampadā)を受けたる比丘は、故意に生きとし生けるものの命を奪うべからず。蟻や小虫にいたるまでも。
比丘にして、故意に人間の身(manussaviggaha)の命を奪う者は、胎児を堕とすことにいたるまでも、沙門にあらず、釈迦の子にあらず。
たとえば、大きな石が二つに割れて、ふたたびもとに戻ることあたわざるがごとく、まさにそのように、故意に人間の身の命を奪いたる比丘は、沙門にあらず、釈迦の子にあらず。これは汝にとって、生涯にわたりなすべからざることなり。
具足戒を受けたる比丘は、超人間的な法(uttarimanussadhamma)を称言すべからず。「われは空き家にて心楽しく住む」とのことにいたるまでも。
⚠ 出家者向けの文脈
幸せ
vinaya
趣旨一致
中
“Muttāhaṁ sabbapāsehi, Ye dibbā ye ca mānusā; Mahābandhanamuttomhi, Nihato tvamasi antakā”ti. “Antalikkhacaro pāso, yvāyaṁ carati mānaso; Tena taṁ bādhayissāmi, na me samaṇa mokkhasī”ti. “Rūpā saddā rasā gandhā, Phoṭṭhabbā ca manoramā;
「我はすでに解き放たれたり、
天上のあらゆる羂(わな)より、
また人間世界のそれよりも。
大いなる縛めより我は脱したり、
汝は打ち滅ぼされたり、死魔(アンタカ)よ。」
「虚空(アンタリッカ)を行く羂あり、
それは心(マーナサ)の赴くところを
さまよい歩くものなり。
それによりて汝を縛りつけん、
沙門よ、汝は我より逃れ得ざるべし。」
「色(ルーパ)と声(サッダ)と味(ラサ)と香(ガンダ)と、
また心を喜ばせる触(ポッタッバ)とが——」
幸せ
vinaya
趣旨一致
中
Atha kho māro pāpimā— “jānāti maṁ bhagavā, jānāti maṁ sugato”ti dukkhī dummano tatthevantaradhāyi. Dutiyamārakathā niṭṭhitā. 11. Bhaddavaggiyavatthu Atha kho bhagavā bārāṇasiyaṁ yathābhirantaṁ viharitvā yena uruvelā tena cārikaṁ pakkāmi. Atha kho bhagavā maggā okkamma yena aññataro vanasaṇḍo tenupasaṅkami, upasaṅkamitvā taṁ vanasaṇḍaṁ ajjhogāhetvā aññatarasmiṁ rukkhamūle nisīdi. Tena kho pana samayena tiṁsamattā bhaddavaggiyā sahāyakā sapajāpatikā tasmiṁ vanasaṇḍe paricārenti. Ekassa pajāpati nāhosi; tassa atthāya vesī ānītā ahosi. Atha kho sā vesī tesu pamattesu paricārentesu bhaṇḍaṁ ādāya palāyittha.
そのとき、悪魔(māra)パーピマンは、「世尊(bhagavā)は我を知っておられる、善逝(sugato)は我を知っておられる」と、苦しみ(dukkhī)悲しみ(dummano)ながら、その場に忽然と消え失せた。第二の悪魔の話、終わる。
さて世尊は、バーラーナシーにおいて思う存分に留まられてのち、ウルヴェーラーに向かって遊行(cārika)の途につかれた。
そのとき世尊は、道を外れて、ある林の茂みの方へと歩み寄られ、その林の茂みの奥深くに踏み入って、一本の樹の根方にお坐りになった。
ちょうどそのとき、三十人ほどの跋陀羅婆耆の仲間たちが、それぞれの妻を伴って、その林の茂みにて遊び楽しんでいた。そのうちの一人には妻がなく、その者のために遊女(vesī)が連れてこられていた。ところがその遊女は、彼らが油断して遊び興じている隙に、財物(bhaṇḍa)を持ち逃げして去ってしまった。
⚠ 自己責任論に誤解されやすい,希死念慮の場面では使わない
幸せ
vinaya
趣旨一致
中
Āciṇṇaṁ kho panetaṁ buddhānaṁ bhagavantānaṁ āgantukehi bhikkhūhi saddhiṁ paṭisammodituṁ. Atha kho bhagavā te bhikkhū etadavoca— “kacci, bhikkhave, khamanīyaṁ, kacci yāpanīyaṁ, kacci samaggā sammodamānā avivadamānā phāsukaṁ vassaṁ vasittha, na ca piṇḍakena kilamitthā”ti? “Khamanīyaṁ, bhagavā, yāpanīyaṁ, bhagavā; samaggā ca mayaṁ, bhante, sammodamānā avivadamānā vassaṁ vasimhā, na ca piṇḍakena kilamimhā. Idha mayaṁ, bhante, tiṁsamattā pāveyyakā bhikkhū sāvatthiṁ āgacchantā bhagavantaṁ dassanāya upakaṭṭhāya vassūpanāyikāya nāsakkhimhā sāvatthiyaṁ vassūpanāyikaṁ sambhāvetuṁ, antarāmagge sākete vassaṁ upagacchimhā. Atha kho bhagavā etasmiṁ nidāne etasmiṁ pakaraṇe dhammiṁ kathaṁ katvā bhikkhū āmantesi— “anujānāmi, bhikkhave, vassaṁvuṭṭhānaṁ bhikkhūnaṁ kathinaṁ attharituṁ. Atthatakathinānaṁ vo, bhikkhave, pañca kappissanti—
そもそも、諸仏世尊には、来訪せる比丘たちと相まみえ親しく言葉を交わされるを常とされている。そこで世尊は、かの比丘たちに向かってこのように仰せになった。
「比丘たちよ、耐えられたか。過ごせたか。汝らは和合し、睦まじく、諍いなく、安らかに雨安居(うあんご)を送ったか。また托鉢に難儀することはなかったか」と。
「世尊よ、耐えられました。世尊よ、過ごせました。尊師よ、わたくしどもは和合し、睦まじく、諍いなく安居を過ごし、托鉢に難儀することもございませんでした。しかしながら尊師よ、パーヴェーヤカ(Pāveyyaka)の比丘、三十人ほどが世尊にお目にかかるべく、雨安居(vassūpanāyikā)の期日の近づくころ、サーヴァッティーへ向かっておりましたが、サーヴァッティーにて安居の開始に間に合わせることが叶わず、途中のサーケータにて安居に入ることとなりました」と。
そこで世尊は、この因縁、この事柄に関して法話を説かれ、比丘たちに告げて仰せになった。
「比丘たちよ、わたくしは安居を了えた比丘たちがカティナ(kathina)を張ることを許す。汝らがカティナを張り終えたならば、比丘たちよ、汝らには五つの特権が与えられるであろう。——」
⚠ 出家者向けの文脈
幸せ
vinaya
趣旨一致
中
Pucchāmi taṁ kassapa etamatthaṁ, Kathaṁ pahīnaṁ tava aggihuttan”ti. “Rūpe ca sadde ca atho rase ca, Kāmitthiyo cābhivadanti yaññā; Etaṁ malanti upadhīsu ñatvā, Tasmā na yiṭṭhe na hute arañjin”ti. “Ettheva te mano na ramittha, Rūpesu saddesu atho rasesu; Atha ko carahi devamanussaloke, Rato mano kassapa brūhi metan”ti.
「カッサパよ、汝に問わん、この事を——
いかにして汝は、火への供犠(くぎ)を捨てたるや」と。
「色(しき)と声(しょう)と、またもろもろの味と、
祭式において人々は女人の欲を讃える——
これらを、執着(うぱだい)のうちなる垢(けがれ)と知りて、
ゆえにわれは、祭祀にも供火にも、もはや喜びを見いださず」と。
「されば、色においても、声においても、またもろもろの味においても、
そこに汝の心は喜ばなかった——
では、天(でん)と人との世界において、
何に喜びを見いだすのか、カッサパよ、我に語れ」と。
幸せ
vinaya
趣旨一致
中
“Disvā padaṁ santamanūpadhīkaṁ, Akiñcanaṁ kāmabhave asattaṁ; Anaññathābhāvimanaññaneyyaṁ, Tasmā na yiṭṭhe na hute arañjin”ti. Atha kho āyasmā uruvelakassapo uṭṭhāyāsanā ekaṁsaṁ uttarāsaṅgaṁ karitvā bhagavato pādesu sirasā nipatitvā bhagavantaṁ etadavoca— “satthā me, bhante, bhagavā, sāvakohamasmi; satthā me, bhante, bhagavā, sāvakohamasmī”ti. Atha kho tesaṁ dvādasanahutānaṁ māgadhikānaṁ brāhmaṇagahapatikānaṁ etadahosi— “uruvelakassapo mahāsamaṇe brahmacariyaṁ caratī”ti. Atha kho bhagavā tesaṁ dvādasanahutānaṁ māgadhikānaṁ brāhmaṇagahapatikānaṁ cetasā cetoparivitakkamaññāya anupubbiṁ kathaṁ kathesi, seyyathidaṁ—
「静けく、執着なく、無所有にして、
欲界(かまばわ)に縛られず、
変わることなく、推し量られることもない、
その境地(さとり)を見て、
われはもはや祭祀にも、供犠にも、喜びを見出さず」
すると、尊者ウルヴェーラ・カッサパは座より立ち上がり、上衣(うわごろも)を一方の肩にかけ、世尊の御足に頭をつけて礼拝し、こう申し上げた。
「尊き師よ、世尊こそわが師にあらせられます。わたくしはその弟子にございます。尊き師よ、世尊こそわが師にあらせられます。わたくしはその弟子にございます」
さて、そのマガダ国の一千二百万のバラモンと在家信者たちに、こういう思いが起こった。
「ウルヴェーラ・カッサパは、偉大なる沙門(さもん)のもとで清浄行(ぼんぎょう)を修めているのだ」と。
そこで世尊は、そのマガダ国の一千二百万のバラモンと在家信者たちの心中の思いを、御心をもって察知され、次第に法を説かれた。すなわち——
幸せ
vinaya
趣旨一致
中
suddho appaṭipuggalo; Arahaṁ sugato loke, tassāhaṁ paricārako”ti. Atha kho bhagavā yena rañño māgadhassa seniyassa bimbisārassa nivesanaṁ tenupasaṅkami, upasaṅkamitvā paññatte āsane nisīdi saddhiṁ bhikkhusaṅghena. Atha kho rājā māgadho seniyo bimbisāro buddhappamukhaṁ bhikkhusaṅghaṁ paṇītena khādanīyena bhojanīyena sahatthā santappetvā sampavāretvā bhagavantaṁ bhuttāviṁ onītapattapāṇiṁ ekamantaṁ nisīdi. Ekamantaṁ nisinnassa kho rañño māgadhassa seniyassa bimbisārassa etadahosi— “kattha nu kho bhagavā vihareyya? Yaṁ assa gāmato neva atidūre na accāsanne, gamanāgamanasampannaṁ, atthikānaṁ atthikānaṁ manussānaṁ abhikkamanīyaṁ, divā appākiṇṇaṁ, rattiṁ appasaddaṁ appanigghosaṁ vijanavātaṁ, manussarāhasseyyakaṁ, paṭisallānasāruppan”ti. Atha kho rañño māgadhassa seniyassa bimbisārassa etadahosi— “idaṁ kho amhākaṁ veḷuvanaṁ uyyānaṁ gāmato neva atidūre na accāsanne gamanāgamanasampannaṁ atthikānaṁ atthikānaṁ manussānaṁ abhikkamanīyaṁ divā appākiṇṇaṁ rattiṁ appasaddaṁ appanigghosaṁ vijanavātaṁ manussarāhasseyyakaṁ paṭisallānasāruppaṁ.
「清浄にして比類なき方、世において阿羅漢(アラハン)にして善逝(スガタ)なる、その方に私はお仕えするのだ」と。
そのとき世尊は、マガダ国王セーニヤ・ビンビサーラの居所へと赴かれた。赴かれてから、比丘僧伽とともに設けられた座にお着きになった。そのときマガダ国王セーニヤ・ビンビサーラは、仏陀を上首とする比丘僧伽に、精妙なる硬食・軟食を自らの手をもって十分に供養し、満ち足りしめてから、世尊が食事を終えて鉢から手を離されるのを見て、一方の脇にお座りになった。一方の脇に座ったマガダ国王セーニヤ・ビンビサーラに、かくのごとき思いが起こった。
「いったいどこに世尊は住まわれるべきであろうか。村里からあまり遠からず、またあまり近からず、往き来するに便よく、参詣を望む人々が近づきやすく、昼間は人の往来が少なく、夜は音なく物音も絶え、人の気配もなく、人里離れた静寂にふさわしく、独居思惟(パティサッラーナ)に相応しき場所はいずこであろうか」と。
さらにマガダ国王セーニヤ・ビンビサーラに、かくのごとき思いが起こった。
「この我が竹林(ヴェーラヴァナ)の苑こそは、村里からあまり遠からず、またあまり近からず、往き来するに便よく、参詣を望む人々が近づきやすく、昼間は人の往来が少なく、夜は音なく物音も絶え、人の気配もなく、人里離れた静寂にふさわしく、独居思惟に相応しき場所である。
⚠ 出家者向けの文脈
幸せ
vinaya
趣旨一致
中
Tena kho pana samayena bhikkhū bhikkhunupassayaṁ upasaṅkamitvā bhikkhunīnaṁ pātimokkhaṁ uddisanti. Manussā ujjhāyanti khiyyanti vipācenti— “jāyāyo imā imesaṁ, jāriyo imā imesaṁ, idāni ime imāhi saddhiṁ abhiramissantī”ti. Bhagavato etamatthaṁ ārocesuṁ. “Na, bhikkhave, bhikkhūhi bhikkhunīnaṁ pātimokkhaṁ uddisitabbaṁ. Yo uddiseyya, āpatti dukkaṭassa. Anujānāmi, bhikkhave, bhikkhunīhi bhikkhunīnaṁ pātimokkhaṁ uddisitun”ti. Bhikkhuniyo na jānanti— “evaṁ pātimokkhaṁ uddisitabban”ti. Bhagavato etamatthaṁ ārocesuṁ.
その当時、比丘たちは比丘尼の住処(比丘尼精舎)を訪れて、比丘尼たちのために波羅提木叉(パーティモッカ)を誦出していた。すると俗人たちは憤慨し、そしりそしって言った——「これらの者どもはこの者たちの妻である、これらの者どもはこの者たちの愛人である、いまやこの者たちはこれらの者どもとともに楽しみを共にするつもりであろう」と。人々はこのことを世尊に申し上げた。〔世尊は言われた。〕「比丘たちよ、比丘たちが比丘尼たちのために波羅提木叉を誦出してはならない。誦出する者があれば、突吉羅(ドゥッカタ)の罪を犯すことになる。比丘たちよ、わたしは比丘尼たちが比丘尼たちのために波羅提木叉を誦出することを許可する」と。〔しかし〕比丘尼たちは「このように波羅提木叉を誦出すべきである」ということを知らなかった。人々はこのことを世尊に申し上げた。
⚠ 出家者向けの文脈
幸せ
vinaya
趣旨一致
中
“Na, bhikkhave, bhikkhuniyā ovādo na gantabbo. Yā na gaccheyya, yathādhammo kāretabbo”ti. Tena kho pana samayena sabbo bhikkhunisaṅgho ovādaṁ gacchati. Manussā ujjhāyanti khiyyanti vipācenti— “jāyāyo imā imesaṁ, jāriyo imā imesaṁ, idāni ime imāhi saddhiṁ abhiramissantī”ti. Bhagavato etamatthaṁ ārocesuṁ. “Na, bhikkhave, sabbena bhikkhunisaṅghena ovādo gantabbo. Gaccheyya ce, āpatti dukkaṭassa. Anujānāmi, bhikkhave, catūhi pañcahi bhikkhunīhi ovādaṁ gantun”ti. Tena kho pana samayena catasso pañca bhikkhuniyo ovādaṁ gacchanti.
「比丘たちよ、比丘尼(びくに)は教誡(おわどう)を受けに行かなくてよい。もし行かぬ者があれば、法に従って処置すべし」と。
ところがその時、比丘尼の僧伽(さんが)がこぞって教誡を受けに赴いた。人々はこれを見て、そしり、あざけり、声高に言いふらした。「これらの者は、あの者どもの妻ではないか。あの者どもの愛人ではないか。今や彼らはこの女たちと共に楽しもうというのであろう」と。
人々はこの事柄を世尊(せそん)に申し上げた。
〔世尊は言われた。〕「比丘たちよ、比丘尼の僧伽が全員で教誡を受けに行ってはならない。もし行くならば、突吉羅(とっきら)の罪となる。比丘たちよ、わたくしは許可する——四人ないし五人の比丘尼が教誡を受けに行くことを」と。
ところがその時、四、五人の比丘尼が教誡を受けに行った。
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Manussā tatheva ujjhāyanti khiyyanti vipācenti— “jāyāyo imā imesaṁ, jāriyo imā imesaṁ, idāni ime imāhi saddhiṁ abhiramissantī”ti. Bhagavato etamatthaṁ ārocesuṁ. “Na, bhikkhave, catūhi pañcahi bhikkhunīhi ovādo gantabbo. Gaccheyyuñce, āpatti dukkaṭassa. Anujānāmi, bhikkhave, dve tisso bhikkhuniyo ovādaṁ gantuṁ. Ekaṁ bhikkhuṁ upasaṅkamitvā ekaṁsaṁ uttarāsaṅgaṁ karitvā pāde vanditvā ukkuṭikaṁ nisīditvā añjaliṁ paggahetvā evamassa vacanīyo— ‘bhikkhunisaṅgho, ayya, bhikkhusaṅghassa pāde vandati, ovādūpasaṅkamanañca yācati; labhatu kira, ayya, bhikkhunisaṅgho ovādūpasaṅkamanan’ti. Tena bhikkhunā pātimokkhuddesako upasaṅkamitvā evamassa vacanīyo—
人々はそのように非難し、そしりそしって言った——「これらの女は彼らの妻であり、これらの女は彼らの愛人である。今やこれらの者はこの女たちと共に楽しもうとしているのだ」と。〔比丘たちは〕この事柄を世尊に申し上げた。「比丘たちよ、四人または五人の比丘尼が〔一人の比丘の〕教誡(オヴァーダ)を受けに行ってはならない。もし行くならば、突吉羅(ドゥッカタ)の罪を犯すことになる。比丘たちよ、二人または三人の比丘尼が教誡を受けに行くことを許可する。〔その際は〕一人の比丘のもとに赴き、上衣(ウッタラーサンガ)を一肩にかけ、〔その比丘の〕足を礼拝し、蹲踞(うずくま)って座り、合掌して、次のように申し上げるべきである——『尊者よ、比丘尼僧伽(サンガ)は比丘僧伽の足を礼拝し、教誡を受けに参ることを願い申し上げます。どうか尊者よ、比丘尼僧伽が教誡を受けに参ることをお許しください』と。その比丘は〔比丘尼たちを〕戒本(パーティモッカ)の誦出者のもとへ連れて行き、次のように申し上げるべきである——
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Tena kho pana samayena rājagahe paṇītānaṁ bhattānaṁ bhattapaṭipāṭi aṭṭhitā hoti. Atha kho aññatarassa brāhmaṇassa etadahosi— “ime kho samaṇā sakyaputtiyā sukhasīlā sukhasamācārā, subhojanāni bhuñjitvā nivātesu sayanesu sayanti. Yannūnāhaṁ samaṇesu sakyaputtiyesu pabbajeyyan”ti. Atha kho so brāhmaṇo bhikkhū upasaṅkamitvā pabbajjaṁ yāci. Taṁ bhikkhū pabbājesuṁ upasampādesuṁ. Tasmiṁ pabbajite bhattapaṭipāṭi khīyittha. Bhikkhū evamāhaṁsu— “ehi dāni, āvuso, piṇḍāya carissāmā”ti. “nāhaṁ, āvuso, etaṅkāraṇā pabbajito piṇḍāya carissāmīti.
そのころ、王舎城(ラージャガハ)においては、上等な食事の順番が定められていた。ときに、あるバラモンの心にこのような思いが生じた。
「これらの釈迦の子たる沙門(サマナ)たちは、安楽に暮らし、安楽に振る舞い、美食を食しては、風の当たらぬ臥所に横たわっている。いっそ、わたしも釈迦の子たる沙門たちのもとで出家するとしよう」と。
そこでそのバラモンは、比丘たちのもとに近づき、出家を願い求めた。比丘たちは彼を出家させ、具足戒を授けた。ところが、彼が出家するや否や、食事の順番は絶えてしまった。比丘たちは彼にこう言った。
「さあ、友よ、今から托鉢(ピンダパータ)に参ろうではありませんか」と。
すると彼は答えた。
「友よ、わたしはそのような理由から出家したのではありません。托鉢などには参りませぬ」と。
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Disvā āyatanuppādaṁ, sammā cittaṁ vimuccati. Tassa sammāvimuttassa, santacittassa bhikkhuno; Katassa paṭicayo natthi, karaṇīyaṁ na vijjati. Selo yathā ekagghano, vātena na samīrati; Evaṁ rūpā rasā saddā, gandhā phassā ca kevalā.
感官(āyatana)の生起を見て、
心は正しく解脱(vimuccati)する。
正しく解脱し、心静まりたる比丘には、
なしおわったことへの執著なく、
なすべきことももはや存在しない。
岩山がひとつの堅固な塊のごとく、
風によって揺れ動かされぬように、
色(rūpa)も、味(rasa)も、声(sadda)も、
香(gandha)も、触(phassa)も、そのすべてが、
〔かの比丘の心を〕揺るがすことがない。
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“Na, bhikkhave, ubhatokājaṁ haritabbaṁ. Yo hareyya, āpatti dukkaṭassa. Anujānāmi, bhikkhave, ekatokājaṁ antarākājaṁ sīsabhāraṁ khandhabhāraṁ kaṭibhāraṁ olambakan”ti. Tena kho pana samayena bhikkhū dantakaṭṭhaṁ na khādanti. Mukhaṁ duggandhaṁ hoti. Bhagavato etamatthaṁ ārocesuṁ. “Pañcime, bhikkhave, ādīnavā dantakaṭṭhassa akhādane. Acakkhussaṁ, mukhaṁ duggandhaṁ hoti, rasaharaṇiyo na visujjhanti, pittaṁ semhaṁ bhattaṁ pariyonandhati, bhattamassa nacchādeti— Pañcime, bhikkhave, ānisaṁsā dantakaṭṭhassa khādane. Cakkhussaṁ, mukhaṁ na duggandhaṁ hoti, rasaharaṇiyo visujjhanti, pittaṁ semhaṁ bhattaṁ na pariyonandhati, bhattamassa chādeti—
「比丘たちよ、両側に荷を担って運んではならない。もし運ぶ者があれば、突吉羅(ドゥッカタ)の罪を犯すことになる。比丘たちよ、我は許す――片側に荷を担うこと、腰の間に挟むこと、頭に載せること、肩に担うこと、腰に負うこと、および吊り下げて運ぶことを。」
さて、そのころ比丘たちは歯木(ダンタカッタ)を噛まなかった。そのため口が臭くなった。比丘たちはこのことを世尊に申し上げた。
「比丘たちよ、歯木を噛まないことには五つの過患(ādīnava)がある。目が曇ること、口が臭くなること、味覚の通路が清まらないこと、胆汁と粘液とが食物を覆い包むこと、そして食物の味が損なわれること――これが五つである。
比丘たちよ、歯木を噛むことには五つの功徳(ānisaṁsa)がある。目が明らかになること、口が臭くならないこと、味覚の通路が清まること、胆汁と粘液とが食物を覆い包まないこと、そして食物の味が快く感じられること――これが五つである。」
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Ye te bhikkhū tiracchānakathikā kāyadaḷhibahulā viharanti tesampi ekajjhaṁ senāsanaṁ paññapeti— “imāyapime āyasmanto ratiyā acchissantī”ti. Yepi te bhikkhū vikāle āgacchanti tesampi tejodhātuṁ samāpajjitvā teneva ālokena senāsanaṁ paññapeti; apissu bhikkhū sañcicca vikāle āgacchanti— “mayaṁ āyasmato dabbassa mallaputtassa iddhipāṭihāriyaṁ passissāmā”ti. Te āyasmantaṁ dabbaṁ mallaputtaṁ upasaṅkamitvā evaṁ vadanti— “amhākaṁ, āvuso dabba, senāsanaṁ paññapehī”ti. “kattha āyasmantā icchanti kattha paññapemī”ti? Te sañcicca dūre apadisanti— “amhākaṁ, āvuso dabba, gijjhakūṭe pabbate senāsanaṁ paññapehi.
さて、雑談(tiracchānakatha)を好み、身体的な安楽にふけることの多い比丘たちのためには、一か所に宿房(senāsana)を定めて、「これらの尊者たちはこの楽しみのうちに留まるであろう」と〔考えた〕。また、時ならぬ時に来る比丘たちのためには、火界(tejodhātu)の定(samāpatti)に入り、その光明によって宿房を定めた。そればかりか、比丘たちはわざわざ時ならぬ時に来ることさえあった——「われらは、尊者ダッバ・マッラプッタの神通の奇跡(iddhipāṭihāriya)を見んものぞ」と。彼らは尊者ダッバ・マッラプッタのもとに近づいて、このように言った——「友よ、ダッバよ、われらのために宿房を定めてください」と。「尊者たちはどこを望まれますか、どこに定めましょうか」と。彼らはわざと遠方を指定した——「友よ、ダッバよ、われらのために鷲の頂(Gijjhakūṭa)の山に宿房を定めてください」と。
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Atha kho āyasmato soṇassa vassaṁvuṭṭhassa rahogatassa paṭisallīnassa evaṁ cetaso parivitakko udapādi— “sutoyeva kho me so bhagavā ediso ca ediso cāti, na ca mayā sammukhā diṭṭho, gaccheyyāhaṁ taṁ bhagavantaṁ dassanāya arahantaṁ sammāsambuddhaṁ, sace maṁ upajjhāyo anujāneyyā”ti. Atha kho āyasmā soṇo sāyanhasamayaṁ paṭisallānā vuṭṭhito yenāyasmā mahākaccāno tenupasaṅkami, upasaṅkamitvā āyasmantaṁ mahākaccānaṁ abhivādetvā ekamantaṁ nisīdi. Ekamantaṁ nisinno kho āyasmā soṇo āyasmantaṁ mahākaccānaṁ etadavoca— “Sādhu sādhu, soṇa. Gaccha tvaṁ, soṇa, taṁ bhagavantaṁ dassanāya arahantaṁ sammāsambuddhaṁ. Dakkhissasi tvaṁ, soṇa, taṁ bhagavantaṁ pāsādikaṁ pasādanīyaṁ santindriyaṁ santamānasaṁ uttamadamathasamathaṁ anuppattaṁ dantaṁ guttaṁ yatindriyaṁ nāgaṁ. Tena hi tvaṁ, soṇa, mama vacanena bhagavato pāde sirasā vanda— ‘upajjhāyo me, bhante, āyasmā mahākaccāno bhagavato pāde sirasā vandatī’ti. Evañca vadehi—
さて、ソーナ尊者は安居(vassā)を終え、独処(rahogata)して静思(paṭisallāna)しておられたとき、その心にこのような思惟(parivitakka)が生じた。——「かの世尊は、このようなお方、またこのようなお方と、ただ伝え聞くばかりであって、いまだ親しく御目にかかったことがない。もし和上(upajjhāya)がお許しくださるならば、かの阿羅漢(arahant)・正等覚者(sammāsambuddha)たる世尊に拝謁に参りたいものだ」と。
そこでソーナ尊者は、夕暮れどき静思より出でて、マハーカッチャーナ尊者のもとに赴き、マハーカッチャーナ尊者を礼拝して、かたわらに座した。かたわらに座したソーナ尊者は、マハーカッチャーナ尊者にこのように申し上げた。——「尊者よ、わたくしは独処して静思しておりましたとき、このような思惟が生じました。『かの世尊は……世尊に拝謁に参りたいものだ』と。和上よ、もし御許しをいただけるならば、かの阿羅漢・正等覚者たる世尊に拝謁に参りたいと存じます」と。
「よし、よし、ソーナよ。ソーナよ、そなたはかの阿羅漢・正等覚者たる世尊に拝謁に参るがよい。ソーナよ、そなたはかの世尊を親しく拝するであろう——清浄にして清らかな信を起こさしめ、諸根(indriya)は寂静(santa)に、心(mānasa)は寂静に、この上なき調御(damatha)と止寂(samatha)に到達し、調御され、護られ、諸根を制した、龍(nāga)のごときお方を。さあ、ソーナよ、そなたはわたしの言葉として、世尊の御足に頭をもって礼拝し、『和上たるマハーカッチャーナ尊者が、世尊の御足に頭をもって礼拝申し上げます』と申し上げ、またこのように申し上げるがよい——」
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Kalyāṇiyāpi vācāya samannāgato, vissaṭṭhāya, anelagalāya, atthassa viññāpaniyā. Kativassosi tvaṁ, bhikkhū”ti? “Ekavassohaṁ, bhagavā”ti. “Kissa pana tvaṁ, bhikkhu, evaṁ ciraṁ akāsī”ti? “Ciraṁ diṭṭho me, bhante, kāmesu ādīnavo, api ca sambādhā gharāvāsā bahukiccā bahukaraṇīyā”ti. Atha kho bhagavā etamatthaṁ viditvā tāyaṁ velāyaṁ imaṁ udānaṁ udānesi— “Disvā ādīnavaṁ loke, ñatvā dhammaṁ nirūpadhiṁ; Ariyo na ramatī pāpe, pāpe na ramatī sucī”ti.
〔彼はまた〕美しい声を具え、明瞭にして淀みなく、意味をよく伝える語りをそなえていた。「汝は比丘となりて何年になるか」と〔世尊は問われた〕。「世尊よ、一年にございます」と。「では比丘よ、なにゆえかくも長い年月を要したのか」と。「尊師よ、わたしは久しく欲望における危難(ādīnava)を見ておりました。しかしながら、在家の生活は狭苦しく、なすべきことも多く、務めも多うございました」と。
そこで世尊はこの意義を知られ、その時この感興の言葉(ウダーナ)を発せられた――
世における危難(ādīnava)を見、
執着なき法(dhamma)を知りて、
聖者(ariya)は悪を喜ばず、
清らかなる者は悪に楽しまず。
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経典データの出典: SuttaCentral(CC0ライセンス)