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10,029
偈句数
9,999
日本語訳あり
9,982
パーリ原文
経典 19
テーマ 20
該当 10,029
すべて
智慧 4354
老い 931
苦しみ 772
正念 695
怒り 356
執着 350
死 350
業・因果 346
幸せ 337
自己 244
人間関係 243
家族 234
不安 168
仕事 165
渇愛 147
慈悲 115
無常 111
孤独 45
空 43
感謝 23
vinaya 2606
中部経典 2117
長部経典 1357
相応部経典 1136
増支部経典 857
jataka 563
スッタニパータ 522
ダンマパダ(法句経) 426
テーラガーター 211
テーリーガーター 68
クッダカパータ 57
イティヴッタカ 54
ウダーナ 34
金剛経 5
維摩経 5
般若心経 4
法華経 4
涅槃経 2
AN 1
苦しみ
スッタニパータ
趣旨一致
中
Tamānisaṁsaṁ pabrūmi, Pucchito avikampinaṁ. Anejassa vijānato, Natthi kāci nisaṅkhati; Virato so
その功徳を私は説こう。問われて答えるなら、心揺るがぬ者について。動揺なく理解する者には、いかなる迷いもなく、執着を離れている
苦しみ
スッタニパータ
趣旨一致
中
viyārabbhā, Khemaṁ passati sabbadhi. Na samesu na omesu, Na ussesu vadate muni;
争いを起こすことをやめて、至る所に安らぎを見いだす。聖者は自分を優れた者とも、劣った者とも、同等な者とも語らない。
苦しみ
スッタニパータ
趣旨一致
短
Paridevasokā sahamaccharā ca;
悲嘆(パリデーヴァ)と憂い(ソーカ)、そして慳貪(マッチャリヤ)とともに、
苦しみ
スッタニパータ
趣旨一致
短
Kuto nu dukkhā samudāgatā ime,
これらの苦(ドゥッカ)はいったいどこから生じてきたのか、
苦しみ
スッタニパータ
趣旨一致
長
kacci apacito tayā”. “Nāhaṁ abhiṇhasaṁvāsā, avajānāmi paṇḍitaṁ; Ukkādhāro manussānaṁ, niccaṁ apacito mayā”. “Pañca kāmaguṇe hitvā, piyarūpe manorame; Saddhāya gharā nikkhamma, dukkhassantakaro bhava. Mitte bhajassu kalyāṇe, pantañca sayanāsanaṁ; Vivittaṁ appanigghosaṁ, mattaññū hohi bhojane. Cīvare piṇḍapāte ca, paccaye sayanāsane; Etesu taṇhaṁ mākāsi, mā lokaṁ punarāgami. Saṁvuto pātimokkhasmiṁ,
「汝はわれを敬ったことがあるか」と。「わたしは常に共に住んでいながら、賢者を軽んじることはありません。松明(たいまつ)を持つ人として人々のために、わたしは常にあなたを敬っております」と。
「五つの欲の対象(五欲功徳)を捨て、
愛しく心楽しき者どもを離れ、
信(サッダー)によって家を出でよ、
苦(ドゥッカ)の終わりをなす者となれ。
善き友(カリヤーナミッタ)と交わり、
辺鄙にして静かな、
人の声少なき独居処(パンタ・サヤナーサナ)を求めよ。
食において量を知る者(マッタンニュー)たれ。
衣(チーヴァラ)においても、
托鉢の食(ピンダパータ)においても、
資具(パッチャヤ)においても、臥座処においても、
これらに渇愛(タンハー)を起こすなかれ、
再びこの世に帰り来ることなかれ。
波羅提木叉(パーティモッカ)において
よく防護し……
⚠ 初手で出すと冷たく見える
苦しみ
スッタニパータ
趣旨一致
長
Agārā anagāriyaṁ. Suddhā suddhehi saṁvāsaṁ, Kappayavho patissatā; Tato samaggā nipakā, Dukkhassantaṁ karissathāti. Dhammacariyasuttaṁ chaṭṭhaṁ. So ce mukharajātiko, vihesābhirato mago; Jīvitaṁ tassa pāpiyo, rajaṁ vaḍḍheti attano. Kalahābhirato bhikkhu, Mohadhammena āvuto; Akkhātampi na jānāti, Dhammaṁ buddhena desitaṁ. Vihesaṁ bhāvitattānaṁ, avijjāya purakkhato; Saṅkilesaṁ na jānāti, maggaṁ niraya
在家(あるいは出家)として、
清らかなる者は清らかなる者とともに住み、
念(ねん)を保ちて修行を営め。
そのように和合し、智慧を具えて、
苦(dukkha)の終わりをもたらすであろう。
――法行経(ダンマチャリヤ・スッタ)第六――
もし彼が多弁の性(たち)に生まれ、
他者を悩ますことを喜ぶ愚か者であれば、
その者の生命はいよいよ劣れるものとなり、
みずから塵垢(rajas)を増やすのみである。
諍い(kalaha)を喜ぶ比丘(びく)は、
迷妄の法(mohadhammaṁ)に覆われて、
仏陀(buddha)によって説かれた法(dhamma)を、
たとえ告げられても、知ることができない。
みずから修めたる者たちを悩ませ、
無明(avijjā)を先頭に立てて、
染汚(saṅkilesa)を知らず、
地獄(niraya)へと向かう道を……
⚠ 出家者向けの文脈
苦しみ
スッタニパータ
趣旨一致
長
Atha kho bhagavā tuṇhībhūtaṁ tuṇhībhūtaṁ bhikkhusaṅghaṁ anuviloketvā bhikkhū āmantesi: “Upadhinidānā pabhavanti dukkhā, Ye keci lokasmimanekarūpā; Yo ve avidvā upadhiṁ karoti, Punappunaṁ dukkhamupeti mando; Tasmā pajānaṁ upadhiṁ na kayirā, Dukkhassa jātippabhavānupassīti. ‘Siyā aññenapi pariyāyena sammā dvayatānupassanā’ti, iti ce, bhikkhave, pucchitāro assu; ‘siyā’tissu vacanīyā. Kathañca siyā? Y
さて、世尊は、静まりかえった比丘の僧伽をひとわたり見渡してから、比丘たちに告げられた。
「もろもろの苦(dukkha)は、執着(upadhi)を縁として生じる。
世にあまたの形をとって現れるものは何であれ。
まことに、愚かなる者は、無知のゆえに執着をつくり、
愚かゆえ、繰り返し繰り返し苦へと赴く。
されば、苦の生起の根源を見つめ、よく知る者は、
執着を作るべからず。」
「比丘たちよ、もし『他の方法によっても、正しく二つの事柄を観察すること(sammā dvayatānupassanā)はありうるか』と問われるならば、『ありうる』と答えるべきである。それはいかにしてか。
⚠ 初手で出すと冷たく見える,出家者向けの文脈
苦しみ
スッタニパータ
趣旨一致
長
tañca dukkhena saṁyutaṁ. Paridevayamāno ce, Kiñcidatthaṁ udabbahe; Sammūḷho hiṁsamattānaṁ, Kayirā ce naṁ vicakkhaṇo. Na hi ruṇṇena sokena, Santiṁ pappoti cetaso; Bhiyyassuppajjate dukkhaṁ, Sarīraṁ cupahaññati. Kiso vivaṇṇo bhavati, Hiṁsamattānamattanā; Na tena petā pālenti, Niratthā paridevanā. Sokamappajahaṁ jantu, Bhiyyo dukkhaṁ nigacchati; Anutthunanto kālaṅkataṁ, Sokassa vasamanvagū. Aññepi pa
その苦(ドゥッカ)に繋がれたものを。
嘆き悲しんだとて、
何ごとかをなし得ようや。
迷える者は自らを傷つけるのみ。
されば智慧ある者は、
それを為さぬがよい。
泣き叫び、嘆くことによっては、
心の安らぎ(サンティ)を得ることはできぬ。
かえって苦(ドゥッカ)はいや増し、
身体はただ損なわれるのみ。
やせ衰え、顔色は蒼ざめ、
自ら己の身を傷つけることとなる。
それによって逝ける者が護られるわけでなし、
嘆き悲しむことは、ただむなしい。
悲しみ(ソカ)を捨て去ることのできぬ者は、
いよいよ深く苦(ドゥッカ)に沈む。
命終えた者のことを慕い嘆き続けて、
悲しみの支配のもとに従っていく。
他の者たちもまた……
苦しみ
スッタニパータ
趣旨一致
長
Suddhānupassīti pacceti ñāṇaṁ. Diṭṭhena ce suddhi narassa hoti, Ñāṇena vā so pajahāti dukkhaṁ; Aññena so sujjhati sopadhīko, Diṭṭhī hi naṁ pāva tathā vadānaṁ. Na brāhmaṇo aññato suddhimāha, Diṭṭhe sute sīlavate mute vā; Puññe ca pāpe ca anūpalitto, Attañjaho nayidha pakubbamāno. Purimaṁ pahāya aparaṁ sitāse, Ejānugā te na taranti saṅgaṁ; Te uggahāyanti nirassajanti, Kapīva sākhaṁ pamuñcaṁ gahāyaṁ.
「清浄なるものを観ずる」と、かれは知見(ñāṇa)をもって思いなす。
もし見ること(diṭṭha)によって人の清浄が成り立つというならば、
あるいはまた知見によって苦(dukkha)を捨て去るというならば、
執著(upadhi)を持つそのひとは、別の道によって清まることになる。
——そのように説くかれを、見解(diṭṭhi)がかく迷わせるのである。
婆羅門(brāhmaṇa)は、清浄を他に求めるとは説かない。
見られたもの、聞かれたもの、戒(sīla)と禁制、感知されたもの、
これらによってではないと。
功徳(puñña)にも罪悪(pāpa)にも染まることなく、
自我(attā)を捨て去り、ここに何ものも作らない者——
そのひとが婆羅門なのである。
前のものを捨てては後のものに執し、
衝動(ejā)のままに流れる者どもは、執著(saṅga)を渡り越えることができない。
かれらは掴んでは放し、放しては掴む——
まるで猿が枝を離しては、また別の枝に飛びつくように。
苦しみ
スッタニパータ
趣旨一致
長
Kiṁsu tassa mahabbhayaṁ”. “Avijjāya nivuto loko, (ajitāti bhagavā) Vevicchā pamādā nappakāsati; Jappābhilepanaṁ brūmi, Dukkhamassa mahabbhayaṁ”. “Savanti sabbadhi sotā, (iccāyasmā ajito) Sotānaṁ kiṁ nivāraṇaṁ; Sotānaṁ saṁvaraṁ brūhi, Kena sotā pidhiyyare”. “Yāni sotāni lokasmiṁ, (ajitāti bhagavā) Sati tesaṁ nivāraṇaṁ; Sotānaṁ saṁvaraṁ brūmi, Paññāyete pidhiyyare”. “Paññā ceva sati yañca, (iccāyasm
「いかなるものが、それ(世)の大いなる恐怖であるのか」
「無明(アヴィッジャー)によって世は覆われている、
(アジタよ、と世尊は言われた)
欲求と放逸(パマーダ)によって輝きを現さず、
渇望(ジャッパー)こそ汚染と我は説く、
苦(ドゥッカ)、それがこの世の大いなる恐怖である」
「流れはあらゆる方向に流れゆく、
(と尊者アジタは言った)
流れを遮るものは何であるか。
流れを制御するものを説きたまえ、
何によって流れは塞がれるのか」
「世にある諸々の流れ(ソーター)は、
(アジタよ、と世尊は言われた)
念(サティ)、それが流れを遮るものである。
流れを制御するものを我は説く、
慧(パンニャー)によって流れは塞がれる」
「慧(パンニャー)と念(サティ)と、
(と尊者アジタは言った)
苦しみ
スッタニパータ
趣旨一致
長
Ye keci lokasmimanekarūpā”. Te cāpi nūnappajaheyyu dukkhaṁ, Ye tvaṁ muni aṭṭhitaṁ ovadeyya; Taṁ taṁ namassāmi samecca nāga, Appeva maṁ bhagavā aṭṭhitaṁ ovadeyya”. “Yaṁ brāhmaṇaṁ vedagumābhijaññā, Akiñcanaṁ kāmabhave asattaṁ; Addhā hi so oghamimaṁ atāri, Tiṇṇo ca pāraṁ akhilo akaṅkho. Vidvā ca yo vedagū naro idha, Bhavābhave saṅgamimaṁ visajja; So vītataṇho anīgho nirāso, Atāri so jātijaranti brūmī
この世において、いかなる多くの形あるものも、
苦(ドゥッカ)を捨て去ることはできないのであろうか。
されど牟尼(むに)よ、あなたが〔正しく〕住する者を教え導いてくださるならば、
わたしはその人々すべてを讃歎し敬礼いたします、龍(ナーガ)よ。
願わくは、世尊(バガヴァン)がわたしをも〔正しく〕住する者として教え導いてくださいますように。
「ヴェーダの窮極(ヴェーダグー)に達したバラモンを知るがよい。
何ものをも所有せず、欲愛の生存にも執着することなき者を。
まことにかの者は、この激流(オーガ)を渡り切り、
渡り了えて彼岸(パーラ)に至り、滞ることなく、疑うことなし。
またここにおいて、知慧ある者、ヴェーダの窮極に達した人は、
種々の生存における執著(サンガ)をことごとく捨て去り、
渇愛(タンハー)を離れ、苦悩なく、希求することなく、
かの者は生(ジャーティ)と老(ジャラー)とを渡り切った、とわたしは説く。」
智慧
スッタニパータ
趣旨一致
中
Sutta Nipāta 4.3 Duṭṭhaṭṭhakasutta Vadanti ve duṭṭhamanāpi eke, Athopi ve saccamanā vadanti; Vādañca jātaṁ muni no
ある者は悪意をもって語り、ある者は真実を求めて語る。議論が起こっても、賢者はそこに巻き込まれない。
智慧
スッタニパータ
趣旨一致
中
upeti, Tasmā munī natthi khilo kuhiñci. Sakañhi diṭṭhiṁ kathamaccayeyya, Chandānunīto ruciyā niviṭṭho; Sayaṁ samattāni pakubbamāno,
だからこそ聖者には一切の偏見がない。好みに引きずられ、信念に固執している時、どうして自分の見解を超えることができようか。自分勝手な行いを作り上げては、自分の思い込みに従って語るだけだ。
智慧
スッタニパータ
趣旨一致
中
Yathā hi jāneyya tathā vadeyya. Yo attano sīlavatāni jantu, Anānupuṭṭhova paresa pāva; Anariyadhammaṁ kusalā tamāhu, Yo
ある者たちは、誰も尋ねてもいないのに、自分の戒律や誓いについて他人に語る。賢い人々は言う、「自分のことを自ら語る者は品性が卑しい」と。
智慧
スッタニパータ
趣旨一致
中
ātumānaṁ sayameva pāva. Santo ca bhikkhu abhinibbutatto, Itihanti sīlesu akatthamāno; Tamariyadhammaṁ kusalā vadanti, Yassussadā natthi kuhiñci
比丘は心穏やかで煩悩を滅し尽くし、戒律について「私はこうである」と誇ることがない。智慧ある人々は言う、世の中の何事についても見栄を張ることのないその人こそ、高貴な性質を持つ者であると。
智慧
スッタニパータ
趣旨一致
中
loke. Pakappitā saṅkhatā yassa dhammā, Purakkhatā santi avīvadātā; Yadattani passati ānisaṁsaṁ, Taṁ nissito kuppapaṭiccasantiṁ. Diṭṭhīnivesā
自分で教えを作り上げ、欠点があるのに広めようとする者が、そこに自分の利益を見出すなら、その者は不安定な平安に依存することになる。
智慧
スッタニパータ
趣旨一致
中
na hi svātivattā, Dhammesu niccheyya samuggahītaṁ; Tasmā naro tesu nivesanesu, Nirassatī ādiyatī ca dhammaṁ. Dhonassa hi
教えを吟味して採用した独断的な見解は、簡単に乗り越えられるものではない。だからこそ人は、これらの教義の中で、ある教えを捨てては別の教えを取り上げる。しかし心を清めた者は
智慧
スッタニパータ
趣旨一致
中
natthi kuhiñci loke, Pakappitā diṭṭhi bhavābhavesu; Māyañca mānañca pahāya dhono, Sa kena gaccheyya anūpayo so. Upayo
この世のいかなる領域についても、作り上げられた見解は一切存在しない。幻想と慢心を捨て去った清らかな人は、どのような道を歩むというのか。その人は何ものにも囚われることがない。
経典データの出典: SuttaCentral(CC0ライセンス)