🔖 ブックマーク機能はLINEログインで利用できます
💬 AIブッダに相談
10,029
偈句数
9,999
日本語訳あり
9,982
パーリ原文
経典 19
テーマ 20
該当 41
すべて
智慧 4354
老い 931
苦しみ 772
正念 695
怒り 356
執着 350
死 350
業・因果 346
幸せ 337
自己 244
人間関係 243
家族 234
不安 168
仕事 165
渇愛 147
慈悲 115
無常 111
孤独 45
空 43
感謝 23
経典: vinaya
✕ クリア
業・因果
vinaya
趣旨一致
中
evarūpo ca pana satthā sāvakehi sīlato rakkhaṁ paccāsīsati. Puna caparaṁ, moggallāna, idhekacco satthā aparisuddhājīvo samāno ‘parisuddhājīvomhī’ti paṭijānāti ‘parisuddho me ājīvo pariyodāto asaṅkiliṭṭho’ti ca. Tamenaṁ sāvakā evaṁ jānanti— Mayañceva kho pana gihīnaṁ āroceyyāma, nāssassa manāpaṁ. Sammannati kho pana cīvarapiṇḍapātasenāsanagilānappaccayabhesajjaparikkhārena— yaṁ tumo karissati, tumova tena paññāyissatī’ti. Evarūpaṁ kho, moggallāna, satthāraṁ sāvakā ājīvato rakkhanti; evarūpo ca pana satthā sāvakehi ājīvato rakkhaṁ paccāsīsati. Puna caparaṁ, moggallāna, idhekacco satthā aparisuddhadhammadesano samāno ‘parisuddhadhammadesanomhī’ti paṭijānāti ‘parisuddhā me dhammadesanā pariyodātā asaṅkiliṭṭhā’ti ca. Tamenaṁ sāvakā evaṁ jānanti—
かくのごとき師を、弟子たちは戒(シーラ)によって守ろうとするのである。
さらにまた、モッガッラーナよ、ここにある師は、不浄なる生活(アージーヴァ)を送りながら、「わたしは清浄なる生活を送っている」と主張し、「わたしの生活は清浄にして明澄であり、汚れなきものである」と言う。弟子たちはかれについて、こう知っている――「もしわれわれが在家の者どもにこのことを告げるならば、かれの心に適うことにはなるまい。しかるにかれは、衣(チーヴァラ)・食(ピンダパータ)・臥坐具(セーナーサナ)・病者の資具たる薬品によって供養を受けている。あなたがなすことは、あなた自身によってこそ知られるであろう」と。かくのごとき師を、モッガッラーナよ、弟子たちは生活(アージーヴァ)によって守るのである。かくのごとき師は、弟子たちによって生活によって守られることを期待するのである。
さらにまた、モッガッラーナよ、ここにある師は、不浄なる法の教示(ダンマデーサナー)をなしながら、「わたしは清浄なる法の教示をなしている」と主張し、「わたしの法の教示は清浄にして明澄であり、汚れなきものである」と言う。弟子たちはかれについて、こう知っている――
⚠ 自己責任論に誤解されやすい
業・因果
vinaya
趣旨一致
中
Mayañceva kho pana gihīnaṁ āroceyyāma, nāssassa manāpaṁ. Sammannati kho pana cīvarapiṇḍapātasenāsanagilānappaccayabhesajjaparikkhārena— yaṁ tumo karissati, tumova tena paññāyissatī’ti. Evarūpaṁ kho, moggallāna, satthāraṁ sāvakā dhammadesanato rakkhanti; evarūpo ca pana satthā sāvakehi dhammadesanato rakkhaṁ paccāsīsati. Puna caparaṁ, moggallāna, idhekacco satthā aparisuddhaveyyākaraṇo samāno ‘parisuddhaveyyākaraṇomhī’ti paṭijānāti ‘parisuddhaṁ me veyyākaraṇaṁ pariyodātaṁ asaṅkiliṭṭhan’ti ca. Tamenaṁ sāvakā evaṁ jānanti— Mayañceva kho pana gihīnaṁ āroceyyāma, nāssassa manāpaṁ. Sammannati kho pana cīvarapiṇḍapātasenāsanagilānappaccayabhesajjaparikkhārena— yaṁ tumo karissati, tumova tena paññāyissatī’ti.
「もし我らがこのことを在家の者どもに告げれば、彼らの意に適うまい。しかるに彼は衣(こころ)・食(じき)・臥具(がぐ)・病者への薬品資具(やくほんしぐ)をもって供養を受けており、『そなたのなすことは、そなた自身によって知られるであろう』と言われるであろう」と。
モッガッラーナよ、このような師を、弟子たちは法の説示(ほうのせっじ)より守り護るのである。また、このような師は弟子たちより法の説示からの守護を望み待つのである。
さらにまた、モッガッラーナよ、ここにある師は、解答(べいやーからな)が清浄ならざるにもかかわらず、「我が解答は清浄である」と称し、「我が解答は清浄にして明浄(みょうじょう)、汚濁(おじょく)なし」と主張する。その師について、弟子たちはかくのごとく知る——「もし我らがこのことを在家の者どもに告げれば、彼らの意に適うまい。しかるに彼は衣・食・臥具・病者への薬品資具をもって供養を受けており、『そなたのなすことは、そなた自身によって知られるであろう』と言われるであろう」と。
⚠ 自己責任論に誤解されやすい
業・因果
vinaya
趣旨一致
中
Evarūpaṁ kho, moggallāna, satthāraṁ sāvakā veyyākaraṇato rakkhanti; evarūpo ca pana satthā sāvakehi veyyākaraṇato rakkhaṁ paccāsīsati. Puna caparaṁ, moggallāna, idhekacco satthā aparisuddhañāṇadassano samāno ‘parisuddhañāṇadassanomhī’ti paṭijānāti ‘parisuddhaṁ me ñāṇadassanaṁ pariyodātaṁ asaṅkiliṭṭhan’ti ca. Tamenaṁ sāvakā evaṁ jānanti— Mayañceva kho pana gihīnaṁ āroceyyāma, nāssassa manāpaṁ. Sammannati kho pana cīvarapiṇḍapātasenāsanagilānappaccayabhesajjaparikkhārena— yaṁ tumo karissati, tumova tena paññāyissatī’ti. Evarūpaṁ kho, moggallāna, satthāraṁ sāvakā ñāṇadassanato rakkhanti; evarūpo ca pana satthā sāvakehi ñāṇadassanato rakkhaṁ paccāsīsatīti. Ahaṁ kho pana, moggallāna, parisuddhasīlo samāno ‘parisuddhasīlomhī’ti paṭijānāmi ‘parisuddhaṁ me sīlaṁ pariyodātaṁ asaṅkiliṭṭhan’ti ca.
「モッガッラーナよ、このような師を、弟子たちは解説(veyyākaraṇa)によって守る。またこのような師は、弟子たちによって解説によって守られることを望む。
さらにまたモッガッラーナよ、ここに或る師が、智見(ñāṇadassana)が清浄ならざるにもかかわらず、『わが智見は清浄である』と称し、『わが智見は清らかにして汚れなく、染汚なし』と宣言する場合がある。その師を弟子たちはかく知る――『われわれがこのことを在家者たちに告げるならば、師の御心には適うまい。されど師は衣・食・臥坐具・病者のための薬品・資具によって供養されている。師が何をなそうとも、師自身がそれによって知られることになろう』と。モッガッラーナよ、このような師を、弟子たちは智見によって守る。またこのような師は、弟子たちによって智見によって守られることを望む。
しかるにわれは、モッガッラーナよ、戒(sīla)が清浄であって、『わが戒は清浄である』と称し、『わが戒は清らかにして汚れなく、染汚なし』と宣言するのである。」
⚠ 自己責任論に誤解されやすい
業・因果
vinaya
趣旨一致
中
Dve pabbatakūṭā samāgantvā taṁ silaṁ sampaṭicchiṁsu. Tato papatikā uppatitvā bhagavato pāde ruhiraṁ uppādesi. Atha kho bhagavā uddhaṁ ulloketvā devadattaṁ etadavoca— “bahuṁ tayā, moghapurisa, apuññaṁ pasutaṁ, yaṁ tvaṁ duṭṭhacitto vadhakacitto tathāgatassa ruhiraṁ uppādesī”ti. Atha kho bhagavā bhikkhū āmantesi— “idaṁ, bhikkhave, devadattena paṭhamaṁ ānantariyaṁ kammaṁ upacitaṁ, yaṁ duṭṭhacittena vadhakacittena tathāgatassa ruhiraṁ uppāditan”ti. Assosuṁ kho bhikkhū— “devadattena kira bhagavato vadho payutto”ti. Te ca bhikkhū bhagavato vihārassa parito parito caṅkamanti uccāsaddā mahāsaddā sajjhāyaṁ karontā, bhagavato rakkhāvaraṇaguttiyā. Assosi kho bhagavā uccāsaddaṁ mahāsaddaṁ sajjhāyasaddaṁ.
二つの山の頂きが合わさって、その岩を受け止めた。そこから飛び散った破片が跳ね上がり、世尊の御足より血を流させた。そこで世尊は上を仰ぎ見て、提婆達多(デーヴァダッタ)にこのように仰せられた。
「愚かなる者よ、汝は多くの罪業(アプンニャ)を積み重ねた。汝が悪意(ドゥッタチッタ)をもって、害意(ヴァダカチッタ)をもって、如来(タターガタ)の御身より血を流させたからである」と。
そこで世尊は比丘たちに告げられた。
「比丘たちよ、これが提婆達多の積み重ねた第一の無間業(アーナンタリヤ・カンマ)である。すなわち、悪意をもって、害意をもって、如来の御身より血を流させたことである」と。
比丘たちはこれを聞き伝えた。「提婆達多が世尊を害しようとしたとのことだ」と。そして比丘たちは世尊の住まわれる精舎の周りをぐるりと巡り歩き、声高く読誦(サッジャーヤ)を唱えながら、世尊をお護り申し上げた。世尊はその声高い、大きな読誦の声をお聞きになった。
⚠ 自己責任論に誤解されやすい,初手で出すと冷たく見える,出家者向けの文脈
業・因果
vinaya
趣旨一致
中
Idha, bhikkhave, ekacco satthā aparisuddhasīlo samāno ‘parisuddhasīlomhī’ti paṭijānāti ‘parisuddhaṁ me sīlaṁ pariyodātaṁ asaṅkiliṭṭhan’ti ca. Tamenaṁ sāvakā evaṁ jānanti— Mayañceva kho pana gihīnaṁ āroceyyāma, nāssassa manāpaṁ. Sammannati kho pana cīvarapiṇḍapātasenāsanagilānappaccayabhesajjaparikkhārena— yaṁ tumo karissati, tumova tena paññāyissatī’ti. Evarūpaṁ kho, bhikkhave, satthāraṁ sāvakā sīlato rakkhanti; evarūpo ca pana satthā sāvakehi sīlato rakkhaṁ paccāsīsati. Puna caparaṁ, bhikkhave, idhekacco satthā aparisuddhājīvo samāno …pe… aparisuddhadhammadesano samāno …pe… aparisuddhaveyyākaraṇo samāno …pe…
比丘たちよ、ここにある師は、戒(シーラ)が清浄ならざるにもかかわらず、「わが戒は清浄である」と称し、「わが戒は清らかに輝き、汚れなきものである」と主張する。その師の弟子たちは、次のように知っている——「もし我々が在家の者どもにこのことを告げれば、師のお気に召すまい。しかるに師は衣(チーヴァラ)・食(ピンダパータ)・臥具(セーナーサナ)・病者のための薬品・諸々の必需品をもって供養を受けておられる。師がなさることは、師ご自身によって明らかとなるであろう」と。比丘たちよ、かかる師を弟子たちは戒によって護る。かかる師はまた、弟子たちから戒による庇護を期待する。
さらにまた、比丘たちよ、ここにある師は、生活(アージーヴァ)が清浄ならざるにもかかわらず……乃至……法の説示(ダンマデーサナー)が清浄ならざるにもかかわらず……乃至……答弁(ヴェッヤーカラナ)が清浄ならざるにもかかわらず……
⚠ 自己責任論に誤解されやすい
業・因果
vinaya
趣旨一致
中
aparisuddhañāṇadassano samāno ‘parisuddhañāṇadassanomhī’ti paṭijānāti ‘parisuddhaṁ me ñāṇadassanaṁ pariyodātaṁ asaṅkiliṭṭhan’ti ca. Tamenaṁ sāvakā evaṁ jānanti— Mayañceva kho pana gihīnaṁ āroceyyāma, nāssassa manāpaṁ. Sammannati kho pana cīvarapiṇḍapātasenāsanagilānappaccayabhesajjaparikkhārena— yaṁ tumo karissati, tumova tena paññāyissatī’ti. Evarūpaṁ kho, bhikkhave, satthāraṁ sāvakā ñāṇadassanato rakkhanti; evarūpo ca pana satthā sāvakehi ñāṇadassanato rakkhaṁ paccāsīsati. Ahaṁ kho pana, bhikkhave, parisuddhasīlo samāno ‘parisuddhasīlomhī’ti paṭijānāmi ‘parisuddhaṁ me sīlaṁ pariyodātaṁ asaṅkiliṭṭhan’ti ca. Na ca maṁ sāvakā sīlato rakkhanti; na cāhaṁ sāvakehi sīlato rakkhaṁ paccāsīsāmi.
清浄ならざる智見(ñāṇadassana)を有しながら、「われは清浄ならざる智見を有する」とは認めず、「わが智見は清浄にして、明浄であり、汚れなきものである」と称する者がいる。その師の弟子たちはこのように知る——「もしわれわれが在家の人々にこのことを告げるならば、師の心に適うまい。しかも師は衣・食・臥坐具・病者への薬品・資具をもって供養を受けている。師が何をなすかは、師自身によってこそ明らかにされるであろう」と。比丘たちよ、このような師を、弟子たちは智見に関して守護するのである。またこのような師は、弟子たちによって智見に関して守護されることを期待するのである。
しかるに、比丘たちよ、われは清浄なる戒(sīla)を有するがゆえに、「われは清浄なる戒を有する」と認め、「わが戒は清浄にして、明浄であり、汚れなきものである」と称する。弟子たちはわれを戒に関して守護しない。またわれも、弟子たちによって戒に関して守護されることを期待しない。
⚠ 自己責任論に誤解されやすい
業・因果
vinaya
趣旨一致
中
Asandiddho ca akkhāti, Pucchito ca na kuppati; Sa ve tādisako bhikkhu, Dūteyyaṁ gantumarahatīti. Aṭṭhahi, bhikkhave, asaddhammehi abhibhūto pariyādinnacitto devadatto āpāyiko nerayiko kappaṭṭho atekiccho. Lābhena, bhikkhave, abhibhūto pariyādinnacitto devadatto āpāyiko nerayiko kappaṭṭho atekiccho; alābhena, bhikkhave …pe… ayasena, bhikkhave …pe… pāpamittatāya bhikkhave, abhibhūto pariyādinnacitto devadatto āpāyiko nerayiko kappaṭṭho atekiccho— Sādhu, bhikkhave, bhikkhu uppannaṁ lābhaṁ abhibhuyya abhibhuyya vihareyya, uppannaṁ alābhaṁ …pe…
疑わず語り、問われて怒らず、
かくのごとき比丘こそ、
使いとして赴くに足る者なり。
諸比丘よ、八つの非法(あさっぽう)に圧倒され、心を奪われたるデーヴァダッタは、悪趣に堕ち、地獄に生まれ、劫を経るまでそこに留まり、救いがたき者となりぬ。
諸比丘よ、利得(らいとく)に圧倒され、心を奪われたるデーヴァダッタは、悪趣に堕ち、地獄に生まれ、劫を経るまでそこに留まり、救いがたき者となりぬ。不利得(ふりとく)に〔圧倒され……〕。不名誉に〔圧倒され……〕。諸比丘よ、悪友(あくゆう)に圧倒され、心を奪われたるデーヴァダッタは、悪趣に堕ち、地獄に生まれ、劫を経るまでそこに留まり、救いがたき者となりぬ。
諸比丘よ、比丘は、生じたる利得を繰り返し繰り返し克服して住するがよい。生じたる不利得を〔繰り返し克服して……〕。
⚠ 希死念慮の場面では使わない,出家者向けの文脈
業・因果
vinaya
趣旨一致
中
Atha kho te bhikkhū bhagavato etamatthaṁ ārocesuṁ. “Saccaṁ kira, bhikkhave, bhikkhū— “Saccaṁ, bhagavā”ti. Vigarahi buddho bhagavā …pe… “kathañhi nāma te, bhikkhave, moghapurisā—dasavassamhā dasavassamhāti—bālā abyattā upasampādessanti. Dissanti upajjhāyā bālā, saddhivihārikā paṇḍitā, dissanti upajjhāyā abyattā saddhivihārikā byattā, dissanti upajjhāyā appassutā, saddhivihārikā bahussutā, dissanti upajjhāyā duppaññā, saddhivihārikā paññavanto. Netaṁ, bhikkhave, appasannānaṁ vā pasādāya …pe… vigarahitvā …pe… dhammiṁ kathaṁ katvā bhikkhū āmantesi— “na, bhikkhave, bālena abyattena upasampādetabbo.
そのとき、かの比丘たちは、世尊にこの事の次第を申し上げた。「比丘たちよ、比丘たちが〔そのようなことを〕したというのは、まことのことか」と〔世尊は問われた〕。「まことでございます、世尊よ」と〔比丘たちは答えた〕。覚者(ブッダ)にして世尊は、これを叱責された。……(中略)……
「比丘たちよ、いったいいかなることぞ、かの愚かなる人々は——〔戒臘〕十年より〔数えよ〕、十年よりと言いながら——愚かにして未熟なる者が〔他者に〕具足戒(うぐそくかい)を授けようとするとは。比丘たちよ、和尚(おしょう)は愚かにして、依止弟子(えしでし)は賢明なる場合も見られ、和尚は未熟にして、依止弟子は熟達せる場合も見られ、和尚は寡聞にして、依止弟子は多聞なる場合も見られ、和尚は劣慧にして、依止弟子は智慧ある場合も見られる。比丘たちよ、これは、いまだ信を生じていない者に信を生ぜしめることにもならず……(中略)……」。かくして叱責し終えて……(中略)……、法にかなった法話(ほうわ)をなされたのち、比丘たちに告げてこう仰せられた——
「比丘たちよ、愚かにして未熟なる者によって、具足戒を授けてはならない。」
⚠ 自己責任論に誤解されやすい,初手で出すと冷たく見える,出家者向けの文脈
業・因果
vinaya
趣旨一致
中
Aduṭṭhullaṁ āpattiṁ aduṭṭhullā āpattīti dīpenti. Te imehi aṭṭhārasahi vatthūhi na apakassanti, na avapakassanti, na āveniṁ uposathaṁ karonti, na āveniṁ pavāraṇaṁ karonti, na āveniṁ saṅghakammaṁ karonti. Ettāvatā kho, upāli, saṅgho samaggo hotī”ti. “Samaggaṁ pana, bhante, saṅghaṁ bhinditvā kiṁ so pasavatī”ti? “Samaggaṁ kho, upāli, saṅghaṁ bhinditvā kappaṭṭhikaṁ kibbisaṁ pasavati, kappaṁ nirayamhi paccatīti. Āpāyiko nerayiko, Kappaṭṭho saṅghabhedako; Vaggarato adhammaṭṭho, Yogakkhemā padhaṁsati; Saṅghaṁ samaggaṁ bhinditvā,
〔ウパーリよ、〕軽罪(アドゥッタッラー・アーパッティ)は軽罪として示し、重罪(ドゥッタッラー・アーパッティ)は重罪として示す。彼らはこれら十八事項において、〔僧伽を〕分裂させず、離脱させず、別々に布薩(ウポーサタ)を行わず、別々に自恣(パワーラナー)を行わず、別々に僧伽の羯磨(サンガカンマ)を行わない。ウパーリよ、これだけのことによって、僧伽は和合するのである。」
「では、尊師よ、和合せる僧伽を破壊した者は、いかなる〔報い〕を受けるのでしょうか。」
「ウパーリよ、和合せる僧伽を破壊した者は、一劫(カッパ)のあいだ続く罪業(キッビサ)を生じ、一劫のあいだ地獄(ニラヤ)において焼かれるのである。」
悪趣(アーパーヤ)に堕ち、地獄に生まれ、
一劫のあいだ、破和合僧(サンガベーダカ)の者は〔苦しみを〕受く。
分裂を好み、正法(ダンマ)に背き、
安穏(ヨーガックヘーマ)の境地を損なう者は、
和合せる僧伽を破壊して、
⚠ 自己責任論に誤解されやすい,希死念慮の場面では使わない
業・因果
vinaya
趣旨一致
中
Kappaṁ nirayamhi paccatī”ti. “Bhinnaṁ pana, bhante, saṅghaṁ samaggaṁ katvā kiṁ so pasavatī”ti? “Bhinnaṁ kho, upāli, saṅghaṁ samaggaṁ katvā brahmaṁ puññaṁ pasavati, kappaṁ saggamhi modatīti. Sukhā saṅghassa sāmaggī, samaggānañca anuggaho; Samaggarato dhammaṭṭho, yogakkhemā na dhaṁsati; Saṅghaṁ samaggaṁ katvāna, kappaṁ saggamhi modatī”ti. “Siyā nu kho, bhante, saṅghabhedako āpāyiko, nerayiko, kappaṭṭho, atekiccho”ti?
「〔破和合僧の者は〕一劫(こう)の間、地獄において苦しみを受ける」と。「されば、尊者よ、破れた僧伽(そうぎゃ)を和合せしめた者は、いかなる果報を生じるのでありましょうか」と。「ウパーリよ、破れた僧伽を和合せしめた者は、梵天に比すべき大いなる功徳(くどく)を生じ、一劫の間、天上において喜びを享受するのである。
僧伽の和合は楽しく、
和合せる者たちへの助けもまた然り。
和合を喜び、法に住する者は、
安穏(あんのん)より落ちることなし。
僧伽を和合せしめた者は、
一劫の間、天上において喜びを享受する」と。
「尊者よ、破和合僧の者は、悪趣(あくしゅ)に堕し、地獄に生じ、一劫の間そこに留まり、救いの術なき者となることがあるのでありましょうか」と。
⚠ 自己責任論に誤解されやすい,希死念慮の場面では使わない
業・因果
vinaya
趣旨一致
中
kathañhi nāma te, bhikkhave, moghapurisā tālataruṇe chedāpetvā tālapattapādukāyo dhāressanti; tāni tālataruṇāni chinnāni milāyanti. Jīvasaññino hi, bhikkhave, manussā rukkhasmiṁ. Netaṁ, bhikkhave, appasannānaṁ vā pasādāya …pe… vigarahitvā …pe… dhammiṁ kathaṁ katvā bhikkhū āmantesi— “na, bhikkhave, tālapattapādukā dhāretabbā. Yo dhāreyya, āpatti dukkaṭassā”ti. Tena kho pana samayena chabbaggiyā bhikkhū— “bhagavatā tālapattapādukā paṭikkhittā”ti—
「比丘たちよ、いったいなぜ、かの愚かな人々は、棕櫚(タール)の若木を切らせて、棕櫚の葉の草履を履くのであろうか。切られた棕櫚の若木は枯れてしまうのである。比丘たちよ、人々は樹木に生命があると感じているのである。」
これは、信じていない者をして信ぜしめることにもならず……(乃至)……と呵責して……(乃至)……ふさわしい教誡(カター)をなし、比丘たちに告げて言われた。
「比丘たちよ、棕櫚の葉の草履を履いてはならない。履く者は、悪作(ドゥッカタ)の罪を犯すことになる。」
さてその頃、六群比丘(チャッバッギヤ)たちは、「世尊によって棕櫚の葉の草履は禁じられた」と知りながら——
⚠ 自己責任論に誤解されやすい,初手で出すと冷たく見える,出家者向けの文脈
業・因果
vinaya
趣旨一致
中
Idha pana, bhikkhave, āgantukā bhikkhū passanti āvāsikānaṁ bhikkhūnaṁ āvāsikākāraṁ, āvāsikaliṅgaṁ, āvāsikanimittaṁ, āvāsikuddesaṁ, supaññattaṁ mañcapīṭhaṁ, bhisibibbohanaṁ, pānīyaṁ paribhojanīyaṁ sūpaṭṭhitaṁ, pariveṇaṁ susammaṭṭhaṁ; passitvā vematikā honti—‘atthi nu kho āvāsikā bhikkhū natthi nu kho’ti. avicinitvā uposathaṁ karonti. Āpatti dukkaṭassa. Te vematikā vicinanti; vicinitvā na passanti; apassitvā uposathaṁ karonti. Anāpatti. Te vematikā vicinanti; vicinitvā passanti;
さて比丘たちよ、ここに客比丘(āgantukā bhikkhū)たちが、常住比丘(āvāsikā bhikkhū)たちの常住のありさま、常住のしるし、常住の表徴、常住の標示——すなわち、整えられた臥床と椅子、褥と枕、飲用水と用水が十分に備えられていること、庭が清く掃き清められていること——を見たとする。これを見て、彼らは疑いを抱く。「常住の比丘たちはいるのであろうか、いないのであろうか」と。〔そのまま〕審べることなく布薩(uposatha)を行う。これは悪作(dukkaṭa)の罪を犯す。
彼らが疑いを抱きつつも審べ、審べてもなお〔常住の比丘たちを〕見出さず、見出さずして布薩を行う。これは罪を犯さない。
彼らが疑いを抱きつつも審べ、審べて〔常住の比丘たちを〕見出す。
⚠ 自己責任論に誤解されやすい,出家者向けの文脈
業・因果
vinaya
趣旨一致
中
Āpatti thullaccayassa. Idha pana, bhikkhave, āgantukā bhikkhū suṇanti āvāsikānaṁ bhikkhūnaṁ āvāsikākāraṁ, āvāsikaliṅgaṁ, āvāsikanimittaṁ, āvāsikuddesaṁ, caṅkamantānaṁ padasaddaṁ, sajjhāyasaddaṁ, ukkāsitasaddaṁ, khipitasaddaṁ; sutvā vematikā honti—‘atthi nu kho āvāsikā bhikkhū natthi nu kho’ti. Te vematikā na vicinanti; avicinitvā uposathaṁ karonti. Āpatti dukkaṭassa. Te vematikā vicinanti; vicinitvā na passanti; apassitvā uposathaṁ karonti. Anāpatti. Te vematikā vicinanti; vicinitvā passanti; passitvā ekato uposathaṁ karonti. Anāpatti. Te vematikā vicinanti; vicinitvā passanti; passitvā pāṭekkaṁ uposathaṁ karonti. Āpatti dukkaṭassa. Te vematikā vicinanti; vicinitvā passanti; passitvā—‘nassantete, vinassantete, ko tehi attho’ti—bhedapurekkhārā uposathaṁ karonti. Āpatti thullaccayassa. Idha pana, bhikkhave, āvāsikā bhikkhū passanti āgantukānaṁ bhikkhūnaṁ āgantukākāraṁ, āgantukaliṅgaṁ, āgantukanimittaṁ, āgantukuddesaṁ, aññātakaṁ pattaṁ, aññātakaṁ cīvaraṁ, aññātakaṁ nisīdanaṁ, pādānaṁ dhotaṁ, udakanissekaṁ; passitvā vematikā honti—‘atthi nu kho āgantukā bhikkhū natthi nu kho’ti.
偸蘭遮(thullaccaya)の罪を犯す。
またここに、比丘たちよ、来訪の比丘たちが、住処の比丘たちの住処者らしい振る舞い、住処者らしい相、住処者らしい徴、住処者らしい様子、経行(きんひん)する足音、読誦の声、咳払いの声、くしゃみの声を耳にする。耳にしてなお疑念を抱く——「住処の比丘たちはいるのか、いないのか」と。彼らは疑念を抱きながらも詮索せず、詮索することなく布薩(uposatha)を行なう。これは悪作(dukkaṭa)の罪を犯す。
彼らは疑念を抱いて詮索し、詮索してもなお見出せず、見出せないまま布薩を行なう。これは罪を犯さず。
彼らは疑念を抱いて詮索し、詮索して見出し、見出したうえで、ともに布薩を行なう。これは罪を犯さず。
彼らは疑念を抱いて詮索し、詮索して見出し、見出したうえで、別々に布薩を行なう。これは悪作の罪を犯す。
彼らは疑念を抱いて詮索し、詮索して見出し、見出したうえで——「あの者どもは滅びるがよい、あの者どもは亡ぶがよい、彼らと何の関わりがあろうか」と——分裂を意図して布薩を行なう。これは偸蘭遮の罪を犯す。
またここに、比丘たちよ、住処の比丘たちが、来訪の比丘たちの来訪者らしい振る舞い、来訪者らしい相、来訪者らしい徴、来訪者らしい様子、見知らぬ鉢、見知らぬ衣、見知らぬ坐具、洗われた足跡、こぼれた水を目にする。目にしてなお疑念を抱く——「来訪の比丘たちはいるのか、いないのか」と。
⚠ 自己責任論に誤解されやすい,出家者向けの文脈
業・因果
vinaya
趣旨一致
中
Te vematikā na vicinanti; avicinitvā uposathaṁ karonti. Āpatti dukkaṭassa. Te vematikā vicinanti; vicinitvā na passanti; apassitvā uposathaṁ karonti. Anāpatti. Te vematikā vicinanti; vicinitvā passanti; passitvā ekato uposathaṁ karonti. Anāpatti. Te vematikā vicinanti; vicinitvā passanti; passitvā pāṭekkaṁ uposathaṁ karonti. Āpatti dukkaṭassa. Te vematikā vicinanti; vicinitvā passanti; passitvā—‘nassantete, vinassantete, ko tehi attho’ti—bhedapurekkhārā uposathaṁ karonti. Āpatti thullaccayassa. Idha pana, bhikkhave, āvāsikā bhikkhū suṇanti āgantukānaṁ bhikkhūnaṁ āgantukākāraṁ, āgantukaliṅgaṁ, āgantukanimittaṁ, āgantukuddesaṁ, āgacchantānaṁ padasaddaṁ, upāhanapapphoṭanasaddaṁ, ukkāsitasaddaṁ, khipitasaddaṁ; sutvā vematikā honti—‘atthi nu kho āgantukā bhikkhū natthi nu kho’ti. Te vematikā na vicinanti; avicinitvā uposathaṁ karonti. Āpatti dukkaṭassa. Te vematikā vicinanti; vicinitvā na passanti; apassitvā uposathaṁ karonti. Anāpatti. Te vematikā vicinanti; vicinitvā passanti; passitvā ekato uposathaṁ karonti. Anāpatti.
彼らが疑いを抱きながら、吟味せず、吟味することなく布薩(うぽさた)を行ずるならば、突吉羅(とっきつら)の罪を犯す。彼らが疑いを抱きながら吟味し、吟味してなお見いだせず、見いだせないまま布薩を行ずるならば、罪はない。彼らが疑いを抱きながら吟味し、吟味して見いだし、見いだしたうえで共に布薩を行ずるならば、罪はない。彼らが疑いを抱きながら吟味し、吟味して見いだし、見いだしたうえで別々に布薩を行ずるならば、突吉羅の罪を犯す。彼らが疑いを抱きながら吟味し、吟味して見いだし、見いだしたうえで、「あの者どもは滅びるがよい、あの者どもは亡びるがよい、あの者どもと何の関わりがあろうか」と、破僧(はそう)を望む心をもって布薩を行ずるならば、偷蘭遮(ちゅうらんしゃ)の罪を犯す。
さて比丘たちよ、ここに住僧(じゅうそう)たる比丘たちが、来訪の比丘たちの、来訪の様子・来訪の特徴・来訪の兆し・来訪の声明を聞き、近づきくる足音・草履の音・咳払いの声・鼻をすする声を聞いて、「来訪の比丘たちはいるのか、いないのか」と疑いを抱くとする。彼らが疑いを抱きながら、吟味せず、吟味することなく布薩を行ずるならば、突吉羅の罪を犯す。彼らが疑いを抱きながら吟味し、吟味してなお見いだせず、見いだせないまま布薩を行ずるならば、罪はない。彼らが疑いを抱きながら吟味し、吟味して見いだし、見いだしたうえで共に布薩を行ずるならば、罪はない。
⚠ 自己責任論に誤解されやすい,出家者向けの文脈
業・因果
vinaya
趣旨一致
中
Idaṁ, bhikkhave, saṅghātanikaṁ aññatitthiyapubbassa ārādhanīyasmiṁ. Evaṁ ārādhako kho, bhikkhave, aññatitthiyapubbo āgato upasampādetabbo. Sace, bhikkhave, aññatitthiyapubbo naggo āgacchati, upajjhāyamūlakaṁ cīvaraṁ pariyesitabbaṁ. Sace acchinnakeso āgacchati, saṅgho apaloketabbo bhaṇḍukammāya. Ye te, bhikkhave, aggikā jaṭilakā, te āgatā upasampādetabbā, na tesaṁ parivāso dātabbo. Kammavādino ete, bhikkhave, kiriyavādino. Sace, bhikkhave, jātiyā sākiyo aññatitthiyapubbo āgacchati, so āgato upasampādetabbo, na tassa parivāso dātabbo. Imāhaṁ, bhikkhave, ñātīnaṁ āveṇikaṁ parihāraṁ dammī”ti. Aññatitthiyapubbakathā niṭṭhitā. Sattamo bhāṇavāro.
「比丘たちよ、これは異教徒出身者(aññatitthiyapubba)のための、サンガートラニカ(saṅghātanika、四カ月の試験期間)に代わる随喜(ārādhana)の法である。かくして随喜を示した異教徒出身者が来たならば、具足戒(upasampadā)を授けるべきである。比丘たちよ、もし異教徒出身者が裸のままで来たならば、和上(upajjhāya)のもとにて衣(cīvara)を求めてやるべきである。もし髪を剃らずに来たならば、サンガに剃髪の羯磨(bhaṇḍukamma)を行うよう告知すべきである。
比丘たちよ、かの火を祀る結髪行者たち(aggikā jaṭilakā)については、来たならばそのまま具足戒を授けるべきであり、彼らに別住(parivāsa)を課してはならない。比丘たちよ、これらの者は業を説く者(kammavādino)であり、行為を認める者(kiriyavādino)であるからである。
比丘たちよ、もし生まれながらの釈迦族(sākiya)の異教徒出身者が来たならば、その者が来たならば具足戒を授けるべきであり、その者に別住を課してはならない。これはわれが親族(ñāti)に対して授ける特別の優遇(āveṇika parihāra)である。」
異教徒出身者に関する話(aññatitthiyapubbakathā)はここに終わる。第七誦分(bhāṇavāra)おわり。
⚠ 自己責任論に誤解されやすい
業・因果
vinaya
趣旨一致
中
Hotha me āyasmanto dhammato vinayato pakkhā”ti. Alabhi kho so bhikkhu sandiṭṭhe sambhatte bhikkhū pakkhe. Jānapadānampi sandiṭṭhānaṁ sambhattānaṁ bhikkhūnaṁ santike dūtaṁ pāhesi— Alabhi kho so bhikkhu jānapadepi sandiṭṭhe sambhatte bhikkhū pakkhe. Atha kho te ukkhittānuvattakā bhikkhū yena ukkhepakā bhikkhū tenupasaṅkamiṁsu, upasaṅkamitvā ukkhepake bhikkhū etadavocuṁ— “anāpatti esā, āvuso, nesā āpatti. Anāpanno eso bhikkhu, neso bhikkhu āpanno. Anukkhitto eso bhikkhu, neso bhikkhu ukkhitto. Adhammikena kammena ukkhitto kuppena aṭṭhānārahenā”ti. “āpatti esā, āvuso, nesā anāpatti.
「尊き方々よ、どうか法(ダンマ)と律(ヴィナヤ)に基づいて、私の側に立ってください」と。
かの比丘は、親しく交わりのある同僚の比丘たちのなかに、支持する者を得た。また、地方に住む親しく交わりのある比丘たちのもとへも使者を遣わし、かの比丘は地方においても、親しく交わりのある比丘たちのなかに支持する者を得た。
そこで、羯磨(カンマ)によって擯出(ひんしゅつ)された者に随従する比丘たちは、擯出を行った比丘たちのもとへ赴き、擯出を行った比丘たちにこのように言った。
「友よ、これは罪過(āpatti)ではありません。罪過でないものを罪過と言うのです。この比丘は罪過を犯してはおりません。罪過を犯したと言うのは誤りです。この比丘は擯出されてはおりません。擯出されたと言うのは誤りです。法に適わぬ羯磨によって、動揺のうちに、根拠なく擯出されたのです」と。
これに対し〔擯出を行った比丘たちは〕言った。
「友よ、これは罪過であります。罪過でないなどとは言えません。
⚠ 出家者向けの文脈
業・因果
vinaya
趣旨一致
中
Tatiyampi kho so adhammavādī bhikkhu bhagavantaṁ etadavoca— “āgametu, bhante, bhagavā dhammassāmī; appossukko, bhante, bhagavā diṭṭhadhammasukhavihāramanuyutto viharatu. Mayametena bhaṇḍanena kalahena viggahena vivādena paññāyissāmā”ti. Atha kho bhagavā— “pariyādinnarūpā kho ime moghapurisā, nayime sukarā saññāpetun”ti— uṭṭhāyāsanā pakkāmi. Dīghāvubhāṇavāro niṭṭhito paṭhamo. Atha kho bhagavā pubbaṇhasamayaṁ nivāsetvā pattacīvaramādāya kosambiṁ piṇḍāya pāvisi. Kosambiyaṁ piṇḍāya caritvā pacchābhattaṁ piṇḍapātapaṭikkanto senāsanaṁ saṁsāmetvā pattacīvaramādāya saṅghamajjhe ṭhitakova imā gāthāyo abhāsi—
三たびまた、その法に悖ることを説く比丘(ひく)は世尊にこのように申し上げた。「世尊よ、どうか世尊は退いてくださいませ。世尊よ、どうか法の主(ほうのしゅ)たる世尊は、煩いなく、現世における安楽の住(じゅう)に親しみつつ住したまえ。この争論(そうろん)、この諍い、この反目、この論諍(ろんじょう)によって、われわれ自身が世に知られることになりましょう」と。
そのとき世尊は、「これらの愚かな人々は〔すでに〕すっかり〔邪見に〕とりつかれてしまっている。これらの者どもを納得させることは容易ではない」と思われ、座より立ちあがって立ち去られた。
——ここにディーガーヴァ品(ジーガーヴァぼん)の朗誦区分、第一が終わる。——
さて世尊は、午前の時刻に、衣を纏い、鉢と衣(えちょう)を持って、コーサンビー(こーさんびー)に托鉢(たくはつ)のために入られた。コーサンビーにて托鉢して歩まれ、食後、托鉢より戻られると、臥坐処(がざしょ)を整え、鉢と衣を持ち、僧伽(さんが)の中にそのままお立ちになって、この偈(げ)を説かれた——
⚠ 自己責任論に誤解されやすい,初手で出すと冷たく見える,出家者向けの文脈
業・因果
vinaya
趣旨一致
中
Eseva antarāyoti pakkamitabbaṁ. Anāpatti vassacchedassa. Idha pana, bhikkhave, vassūpagatānaṁ bhikkhūnaṁ senāsanaṁ agginā daḍḍhaṁ hoti. Bhikkhū senāsanena kilamanti. Eseva antarāyoti pakkamitabbaṁ. Anāpatti vassacchedassa. Idha pana, bhikkhave, vassūpagatānaṁ bhikkhūnaṁ gāmo udakena vūḷho hoti. Bhikkhū piṇḍakena kilamanti. Eseva antarāyoti pakkamitabbaṁ. Anāpatti vassacchedassa.
「これこそが障難(antarāya)である」として、〔その場を〕立ち去るべきである。雨安居(vassacchedassa)を断ったことによる罪はない。
また比丘たちよ、ここに、雨安居に入った比丘たちの住処(senāsana)が火に焼かれることがある。比丘たちが住処のことで苦労する〔ような場合〕、「これこそが障難である」として、〔その場を〕立ち去るべきである。雨安居を断ったことによる罪はない。
また比丘たちよ、ここに、雨安居に入った比丘たちの村(gāma)が水に押し流されることがある。比丘たちが托鉢(piṇḍaka)のことで苦労する〔ような場合〕、「これこそが障難である」として、〔その場を〕立ち去るべきである。雨安居を断ったことによる罪はない。
⚠ 自己責任論に誤解されやすい,出家者向けの文脈
業・因果
vinaya
趣旨一致
中
Idha pana, bhikkhave, vassūpagatānaṁ bhikkhūnaṁ senāsanaṁ udakena vūḷhaṁ hoti. Bhikkhū senāsanena kilamanti. Eseva antarāyoti pakkamitabbaṁ. Anāpatti vassacchedassā”ti. Tena kho pana samayena aññatarasmiṁ āvāse vassūpagatānaṁ bhikkhūnaṁ gāmo corehi vuṭṭhāsi. “Anujānāmi, bhikkhave, yena gāmo tena gantun”ti. Gāmo dvedhā bhijjittha. “Anujānāmi, bhikkhave, yena bahutarā tena gantun”ti. Bahutarā assaddhā honti appasannā. “Anujānāmi, bhikkhave, yena saddhā pasannā tena gantun”ti.
「比丘たちよ、ここに安居(vassā)に入った比丘たちの僧房(senāsana)が水に押し流されることがある。比丘たちが僧房のことで苦労しているならば、これこそが障難(antarāya)である。〔その場合は〕立ち去るべし。安居(vassa)を破ることの不犯(anāpatti)である。」
さてそのころ、ある住処において、安居に入った比丘たちの村が盗賊によって立ち退かされることがあった。〔世尊はいわく、〕「比丘たちよ、その村のある方角へ向かうことを許す。」
〔しかるに〕その村が二つに分かれることがあった。「比丘たちよ、より多くの者がいる方へ向かうことを許す。」
〔しかるに〕その多数の者たちが信心なく(assaddhā)、浄信(pasannā)なき者たちであることがあった。「比丘たちよ、信あり浄信ある者たちのいる方へ向かうことを許す。」
⚠ 自己責任論に誤解されやすい,出家者向けの文脈
業・因果
vinaya
趣旨一致
中
Atha kho so nāgo aviruḷhidhammo kirāhaṁ imasmiṁ dhammavinayeti dukkhī dummano assūni pavattayamāno vissaraṁ katvā pakkāmi. Atha kho bhagavā bhikkhū āmantesi— “dveme, bhikkhave, paccayā nāgassa sabhāvapātukammāya. Yadā ca sajātiyā methunaṁ dhammaṁ paṭisevati, yadā ca vissaṭṭho niddaṁ okkamati— Tiracchānagato, bhikkhave, anupasampanno na upasampādetabbo, upasampanno nāsetabbo”ti. Tena kho pana samayena aññataro māṇavako mātaraṁ jīvitā voropesi. So tena pāpakena kammena aṭṭīyati harāyati jigucchati. Atha kho tassa māṇavakassa etadahosi— “kena nu kho ahaṁ upāyena imassa pāpakassa kammassa nikkhantiṁ kareyyan”ti? Atha kho tassa māṇavakassa etadahosi—
そのとき、その龍(ナーガ)は、「われはこの法と律において成長することができない」と悟り、悲しみ、憂いに沈み、涙を流しながら、声を上げて泣き、立ち去った。
そこで世尊は比丘たちに告げられた。
「比丘たちよ、龍がその本性を現すに至る縁(パッチャヤ)は二つある。すなわち、同種のものと婬法(メトゥナ・ダンマ)を行うとき、および眠りに落ちるとき、その本来の姿が現れるのである。比丘たちよ、畜生(ティラッチャーナガタ)たるものは、まだ具足戒(ウパサンパダー)を受けていない者には授けてはならず、すでに受けている者は除滅(ナーセタッバ)しなければならない。」
さて、そのころ、ある若者(マーナヴァカ)が母親を命(ジーヴィタ)から奪った。彼はその悪しき業(カンマ)のゆえに悩み、恥じ、おのれを厭うていた。そのとき、その若者の心にこのような思いが起こった。「いかなる方便によって、われはこの悪しき業の滅除(ニッカンティ)をなし得るであろうか」と。そのとき、その若者の心にまたこのような思いが起こった——
⚠ 自己責任論に誤解されやすい,出家者向けの文脈
経典データの出典: SuttaCentral(CC0ライセンス)