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偈句数
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日本語訳あり
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パーリ原文
経典 19
テーマ 20
該当 54
すべて
智慧 4354
老い 931
苦しみ 772
正念 695
怒り 356
執着 350
死 350
業・因果 346
幸せ 337
自己 244
人間関係 243
家族 234
不安 168
仕事 165
渇愛 147
慈悲 115
無常 111
孤独 45
空 43
感謝 23
経典: イティヴッタカ
✕ クリア
苦しみ
イティヴッタカ
趣旨一致
長
Ekakanipāta Paṭhamavagga Dosapariññāsutta Vuttañhetaṁ bhagavatā vuttamarahatāti me sutaṁ: “Dosaṁ, bhikkhave, anabhijānaṁ aparijānaṁ tattha cittaṁ avirājayaṁ appajahaṁ abhabbo dukkhakkhayāya. Dosañca kho, bhikkhave, abhijānaṁ parijānaṁ tattha cittaṁ virājayaṁ pajahaṁ bhabbo dukkhakkhayāyā”ti. Etamatthaṁ bhagavā avoca. Tatthetaṁ iti vuccati: “Yena dosena duṭṭhāse, sattā gacchanti duggatiṁ; Taṁ dosaṁ sammadaññāya, pajahanti vipassino; Pahāya na punāyanti, imaṁ lokaṁ kudācanan”ti. Ayampi attho vutto
これは世尊によって説かれたことであり、阿羅漢によって説かれたことである、と私は聞いた。
「比丘たちよ、瞋恚(ドーサ)を深く知らず、あまねく知らず、そこに向かう心を離欲せず、捨て去らぬ者は、苦(ドゥッカ)の滅尽をなし得ない。比丘たちよ、しかるに瞋恚を深く知り、あまねく知り、そこに向かう心を離欲し、捨て去る者は、苦の滅尽をなし得るのである。」
この意義を世尊は説かれた。これについて、かく語られる。
瞋恚によって汚された衆生は
悪しき境涯へと赴く。
その瞋恚を正しく知り尽くして
洞察の智慧ある者たちは捨て去る。
捨て去りてのちは、ふたたび
この世に戻ることなし、いつの世にも。
この意義もまた、世尊によって説かれたものである。
苦しみ
イティヴッタカ
趣旨一致
長
Catukkanipāta Brāhmaṇadhammayāgavagga Āsavakkhayasutta Vuttañhetaṁ bhagavatā vuttamarahatāti me sutaṁ: “Jānatohaṁ, bhikkhave, passato āsavānaṁ khayaṁ vadāmi, no ajānato no apassato. Kiñca, bhikkhave, jānato, kiṁ passato āsavānaṁ khayo hoti? Idaṁ dukkhanti, bhikkhave, jānato passato āsavānaṁ khayo hoti. Ayaṁ dukkhasamudayoti, bhikkhave, jānato passato āsavānaṁ khayo hoti. Ayaṁ dukkhanirodhoti, bhikkhave, jānato passato āsavānaṁ khayo hoti. Ayaṁ dukkhanirodhagāminī paṭipadāti, bhikkhave, jānato pa
これは世尊によって説かれたことであり、阿羅漢(arahat)によって説かれたことであると、私は聞いた。
「比丘たちよ、私は知り、見る者にこそ、諸々の漏(āsava)の滅尽を説く。知らず、見ぬ者には説かない。では、比丘たちよ、何を知り、何を見るならば、漏の滅尽はあるのか。
比丘たちよ、『これは苦(dukkha)である』と知り見ることによって、漏の滅尽はある。
比丘たちよ、『これは苦の集(dukkhasamudaya)である』と知り見ることによって、漏の滅尽はある。
比丘たちよ、『これは苦の滅(dukkhanirodha)である』と知り見ることによって、漏の滅尽はある。
比丘たちよ、『これは苦の滅に導く道(dukkhanirodhagāminī paṭipadā)である』と知り見ることによって……」
苦しみ
イティヴッタカ
趣旨一致
長
Ekakanipāta Dutiyavagga Mohapariññāsutta Vuttañhetaṁ bhagavatā vuttamarahatāti me sutaṁ: “Mohaṁ, bhikkhave, anabhijānaṁ aparijānaṁ tattha cittaṁ avirājayaṁ appajahaṁ abhabbo dukkhakkhayāya. Mohañca kho, bhikkhave, abhijānaṁ parijānaṁ tattha cittaṁ virājayaṁ pajahaṁ bhabbo dukkhakkhayāyā”ti. Etamatthaṁ bhagavā avoca. Tatthetaṁ iti vuccati: “Yena mohena mūḷhāse, sattā gacchanti duggatiṁ; Taṁ mohaṁ sammadaññāya, pajahanti vipassino; Pahāya na punāyanti, imaṁ lokaṁ kudācanan”ti. Ayampi attho vutto b
これは世尊によって説かれたことであり、尊き方によって説かれたことと、わたしは聞いた。
「比丘たちよ、痴(モーハ)を徹知せず、遍知せず、それに対して心の離貪(ヴィラーガ)を得ず、捨断しない者は、苦(ドゥッカ)の滅尽を成し遂げることができない。比丘たちよ、しかるに痴を徹知し、遍知し、それに対して心の離貪を得、捨断する者は、苦の滅尽を成し遂げることができる。」
世尊はこの義(こころ)を説かれた。ここにおいて、このように言われる。
> 痴(モーハ)に迷わされたる衆生(しゅじょう)は、\
> その痴によりて悪趣(あくしゅ)へと赴く。\
> 観(かん)ずる者(ヴィパッシン)は、痴を正しく知り、\
> 捨て去る、それを残すことなく。\
> 捨て去りしのち、ふたたびこの世に\
> 還り来ることなし、いかなる時にも。
この義もまた世尊によって説かれたものである。
苦しみ
イティヴッタカ
趣旨一致
長
Ekakanipāta Dutiyavagga Kodhapariññāsutta Vuttañhetaṁ bhagavatā vuttamarahatāti me sutaṁ: “Kodhaṁ, bhikkhave, anabhijānaṁ aparijānaṁ tattha cittaṁ avirājayaṁ appajahaṁ abhabbo dukkhakkhayāya. Kodhañca kho, bhikkhave, abhijānaṁ parijānaṁ tattha cittaṁ virājayaṁ pajahaṁ bhabbo dukkhakkhayāyā”ti. Etamatthaṁ bhagavā avoca. Tatthetaṁ iti vuccati: “Yena kodhena kuddhāse, sattā gacchanti duggatiṁ; Taṁ kodhaṁ sammadaññāya, pajahanti vipassino; Pahāya na punāyanti, imaṁ lokaṁ kudācanan”ti. Ayampi attho v
これは世尊によって説かれたものである。かの阿羅漢によって説かれたと、わたくしは聞いた。
「比丘たちよ、瞋恚(コーダ)を深く知らず、あまねく了知せず、そこにおいて心の離欲(ヴィラーガ)を得ず、捨て去ることなくしては、苦の滅尽(ドゥッカッカヤ)を得ることは叶わない。しかるに比丘たちよ、瞋恚を深く知り、あまねく了知し、そこにおいて心の離欲を得、捨て去るならば、苦の滅尽を得ることができる。」
この意義を世尊は説かれた。そこにおいて、かく語られている——
瞋恚(コーダ)によりて怒りに燃ゆる衆生は、
悪しき境涯(ドゥッガティ)へと赴く。
その瞋恚を正しく知りて、
智慧ある者(ヴィパッシノー)はこれを捨て去る。
捨て去りし者は再びこの世に還らず、
いつの世にも再び来たることなし。
この意義もまた、世尊によって説かれたものである。
苦しみ
イティヴッタカ
趣旨一致
長
Ekakanipāta Dutiyavagga Makkhapariññāsutta Vuttañhetaṁ bhagavatā vuttamarahatāti me sutaṁ: “Makkhaṁ, bhikkhave, anabhijānaṁ aparijānaṁ tattha cittaṁ avirājayaṁ appajahaṁ abhabbo dukkhakkhayāya. Makkhañca kho, bhikkhave, abhijānaṁ parijānaṁ tattha cittaṁ virājayaṁ pajahaṁ bhabbo dukkhakkhayāyā”ti. Etamatthaṁ bhagavā avoca. Tatthetaṁ iti vuccati: “Yena makkhena makkhāse, sattā gacchanti duggatiṁ; Taṁ makkhaṁ sammadaññāya, pajahanti vipassino; Pahāya na punāyanti, imaṁ lokaṁ kudācanan”ti. Ayampi at
これは世尊によって説かれた。かくのごとく我は聞けり――阿羅漢にして世尊はこのように説きたまえり。
「比丘たちよ、諂り(マッカ)を完全に知らず、あまねく了知せず、そこに対して心の離欲を得ず、捨て去らない者は、苦の滅尽(ドゥッカッカヤ)を成し遂げることができない。比丘たちよ、しかるに諂りを完全に知り、あまねく了知し、そこに対して心の離欲を得、捨て去った者は、苦の滅尽を成し遂げることができる」と。
世尊はこの義(こころ)を説きたまえり。ここにおいて、かくのごとく説かれる――
諂りによりて諂われたる 衆生たちは悪趣(あくしゅ)に赴く。
かの諂りをよく知り尽くし 観る者(ヴィパッシノ)たちはこれを捨て去る。
捨て去りて、再び還らず いつの世にもこの世界には。
この義もまた世尊によって説かれたり。かくのごとく、我は聞けり。
苦しみ
イティヴッタカ
趣旨一致
長
Ekakanipāta Dutiyavagga Saṅghabhedasutta Vuttañhetaṁ bhagavatā vuttamarahatāti me sutaṁ: “Ekadhammo, bhikkhave, loke uppajjamāno uppajjati bahujanāhitāya bahujanāsukhāya bahuno janassa anatthāya ahitāya dukkhāya devamanussānaṁ. Katamo ekadhammo? Saṅghabhedo. Saṅghe kho pana, bhikkhave, bhinne aññamaññaṁ bhaṇḍanāni ceva honti, aññamaññaṁ paribhāsā ca honti, aññamaññaṁ parikkhepā ca honti, aññamaññaṁ pariccajanā ca honti. Tattha appasannā ceva nappasīdanti, pasannānañca ekaccānaṁ aññathattaṁ hotī”
これは世尊によって説かれたものである。尊き方が説かれた、とわたくしは聞いた。
「比丘たちよ、世にあらわれるとき、多くの人々の不利益のために、多くの人々の不幸のために、多くの人々の損害・不利益・苦しみのために、神々と人間たちの苦しみのために、あらわれるものが一つある。その一つとはなにか。それは僧伽の分裂(サンガベーダ)である。
比丘たちよ、まことに僧伽(サンガ)が分裂するとき、互いに諍い(ケンカ)が生じ、互いに罵り合いが生じ、互いに排斥し合いが生じ、互いに見捨て合いが生じる。そこにおいては、いまだ信心(パサーダ)なき者は信心を生ずることなく、すでに信心ある者のうち、一部の者はその心が変わってしまうのである。」
苦しみ
イティヴッタカ
趣旨一致
長
Dukanipāta Paṭhamavagga Dukkhavihārasutta “Dvīhi, bhikkhave, dhammehi samannāgato bhikkhu diṭṭheva dhamme dukkhaṁ viharati savighātaṁ saupāyāsaṁ sapariḷāhaṁ; kāyassa bhedā paraṁ maraṇā duggati pāṭikaṅkhā. Katamehi dvīhi? Indriyesu aguttadvāratāya ca, bhojane amattaññutāya ca. Imehi kho, bhikkhave, dvīhi dhammehi samannāgato bhikkhu diṭṭheva dhamme dukkhaṁ viharati savighātaṁ saupāyāsaṁ sapariḷāhaṁ; kāyassa bhedā paraṁ maraṇā duggati pāṭikaṅkhā”ti. Etamatthaṁ bhagavā avoca. Tatthetaṁ iti vuccati:
# イティヴッタカ 二集 第一章 苦住経
「比丘たちよ、二つの法を具えた比丘は、現世においても苦しみのうちに住し、悩乱(さいなみ)あり、憂悶(うもん)あり、熱悩(ねつのう)あり、身の滅後、死後には悪趣(あくしゅ)に赴くことが予期される。いかなる二つの法であるか。諸根(しょこん)の門を守らざること、および食において量を知らざること、これである。比丘たちよ、まことにこの二つの法を具えた比丘は、現世においても苦しみのうちに住し、悩乱あり、憂悶あり、熱悩あり、身の滅後、死後には悪趣に赴くことが予期される。」
この義(こころ)を世尊は説かれた。そこにおいて、次のように説かれる。
⚠ 希死念慮の場面では使わない,出家者向けの文脈
苦しみ
イティヴッタカ
趣旨一致
長
Dukanipāta Paṭhamavagga Sukhavihārasutta Vuttañhetaṁ bhagavatā vuttamarahatāti me sutaṁ: “Dvīhi, bhikkhave, dhammehi samannāgato bhikkhu diṭṭheva dhamme sukhaṁ viharati avighātaṁ anupāyāsaṁ apariḷāhaṁ; kāyassa bhedā paraṁ maraṇā sugati pāṭikaṅkhā. Katamehi dvīhi? Indriyesu guttadvāratāya ca, bhojane mattaññutāya ca. Imehi kho, bhikkhave, dvīhi dhammehi samannāgato bhikkhu diṭṭheva dhamme sukhaṁ viharati avighātaṁ anupāyāsaṁ apariḷāhaṁ; kāyassa bhedā paraṁ maraṇā sugati pāṭikaṅkhā”ti. Etamatthaṁ
これは世尊によって説かれたものである。阿羅漢(アラハン)によって説かれたものを、わたしはこのように聞いた――
「比丘たちよ、二つの法(ダンマ)を具えた比丘は、まさに現世において、障りなく、悩みなく、熱悩(パリラーハ)なく、安楽に住する。そして身体の滅後、死を超えて、善趣(スガティ)に赴くことが期待される。いかなる二つの法であるか。諸根(インドリヤ)の門を守ること、および食において量を知ること――この二つである。
比丘たちよ、これら二つの法を具えた比丘は、まさに現世において、障りなく、悩みなく、熱悩なく、安楽に住する。そして身体の滅後、死を超えて、善趣に赴くことが期待される」と。
⚠ 希死念慮の場面では使わない,出家者向けの文脈
苦しみ
イティヴッタカ
趣旨一致
長
Dukanipāta Dutiyavagga Paññāparihīnasutta Vuttañhetaṁ bhagavatā vuttamarahatāti me sutaṁ: “Te, bhikkhave, sattā suparihīnā ye ariyāya paññāya parihīnā. Te diṭṭheva dhamme dukkhaṁ viharanti savighātaṁ saupāyāsaṁ sapariḷāhaṁ; kāyassa bhedā paraṁ maraṇā duggati pāṭikaṅkhā. Te, bhikkhave, sattā aparihīnā ye ariyāya paññāya aparihīnā. Te diṭṭheva dhamme sukhaṁ viharanti avighātaṁ anupāyāsaṁ apariḷāhaṁ; kāyassa bhedā paraṁ maraṇā sugati pāṭikaṅkhā”ti. Etamatthaṁ bhagavā avoca. Tatthetaṁ iti vuccati: “
# イティヴッタカ 第二集 第二章 智慧を失った者の経
これは世尊によって説かれたことである。阿羅漢によって説かれたと、私は聞いた。
「比丘たちよ、聖なる智慧(ariyā paññā)を失った衆生は、まことに大いなる損失を被った者である。彼らは現世においても苦しみのうちに住す――障碍あり、悩みあり、熱悩あり。そして身体の壊れた後、死後においては悪しき境涯(duggati)に赴くことが予期される。
比丘たちよ、聖なる智慧を失わない衆生は、損失を被らない者である。彼らは現世においても安楽のうちに住す――障碍なく、悩みなく、熱悩なし。そして身体の壊れた後、死後においては善き境涯(sugati)に赴くことが予期される」と。
この意義を世尊は説かれた。そこにおいて、次のように説かれる。
⚠ 希死念慮の場面では使わない
苦しみ
イティヴッタカ
趣旨一致
長
Dukanipāta Dutiyavagga Nibbānadhātusutta Vuttañhetaṁ bhagavatā vuttamarahatāti me sutaṁ: “Dvemā, bhikkhave, nibbānadhātuyo. Katamā dve? Saupādisesā ca nibbānadhātu, anupādisesā ca nibbānadhātu. Katamā ca, bhikkhave, saupādisesā nibbānadhātu? Idha, bhikkhave, bhikkhu arahaṁ hoti khīṇāsavo vusitavā katakaraṇīyo ohitabhāro anuppattasadattho parikkhīṇabhavasaṁyojano sammadaññāvimutto. Tassa tiṭṭhanteva pañcindriyāni yesaṁ avighātattā manāpāmanāpaṁ paccanubhoti, sukhadukkhaṁ paṭisaṁvedeti. Tassa yo r
これはかの世尊によって説かれたことであり、阿羅漢によって説かれたことであると、わたしは聞いた。
「比丘たちよ、この二つの涅槃界(ニッバーナダートゥ)がある。いかなる二つであるか。有余依涅槃界(サウパーディセーサー・ニッバーナダートゥ)と、無余依涅槃界(アヌパーディセーサー・ニッバーナダートゥ)とである。
比丘たちよ、いかなるものが有余依涅槃界であるか。比丘たちよ、ここに一人の比丘がいる。彼は阿羅漢(アラハン)であり、諸々の煩悩(アーサヴァ)を滅ぼし尽くし、梵行を全うし、なすべきことをなし終え、重荷をおろし、真の利益を得、生存を繋ぐ諸々の結縛(サンヨージャナ)を余すところなく滅し、正しい智慧によって解脱した者である。彼にはいまだ五つの感官(パンチンドリヤ)が残っている。それらが滅していないがゆえに、彼は意に適うものと意に適わぬものとを経験し、楽と苦とを感受する。彼において、この……
⚠ 出家者向けの文脈
苦しみ
イティヴッタカ
趣旨一致
長
Tikanipāta Paṭhamavagga Paṭhamavedanāsutta Vuttañhetaṁ bhagavatā vuttamarahatāti me sutaṁ: “Tisso imā, bhikkhave, vedanā. Katamā tisso? Sukhā vedanā, dukkhā vedanā, adukkhamasukhā vedanā— imā kho, bhikkhave, tisso vedanā”ti. Etamatthaṁ bhagavā avoca. Tatthetaṁ iti vuccati: “Samāhito sampajāno, sato buddhassa sāvako; Vedanā ca pajānāti, vedanānañca sambhavaṁ. Yattha cetā nirujjhanti, maggañca khayagāminaṁ; Vedanānaṁ khayā bhikkhu, nicchāto parinibbuto”ti. Ayampi attho vutto bhagavatā, iti me suta
これは世尊によって説かれたものであり、阿羅漢によって説かれたものと、私は聞いた。
「比丘たちよ、これら三つの受(ヴェーダナー)がある。いかなる三つか。楽受(スカー・ヴェーダナー)、苦受(ドゥッカー・ヴェーダナー)、不苦不楽受(アドゥッカマスカー・ヴェーダナー)——比丘たちよ、これらがすなわち三つの受である。」
この意義を世尊は説かれた。これについて、かく語られる。
> 定に入り、正知あり、念(ねん)を具えた 仏の弟子は、
> 受をあるがままに了知し、受の生起するところを知り、
> それらの受の滅するところを知り、
> また苦の滅尽へと導く道をも知る。
> 受の滅尽によって、比丘は
> 渇(かつ)を離れ、完全な涅槃(ニッバーナ)に入る。
この意義もまた世尊によって説かれたものであると、私は聞いた。
⚠ 出家者向けの文脈
苦しみ
イティヴッタカ
趣旨一致
長
Tikanipāta Paṭhamavagga Dutiyavedanāsutta Vuttañhetaṁ bhagavatā vuttamarahatāti me sutaṁ: “Tisso imā, bhikkhave, vedanā. Tatthetaṁ iti vuccati: Katamā tisso? Sukhā vedanā, dukkhā vedanā, adukkhamasukhā vedanā. Sukhā, bhikkhave, vedanā dukkhato daṭṭhabbā; dukkhā vedanā sallato daṭṭhabbā; adukkhamasukhā vedanā aniccato daṭṭhabbā. Yato kho, bhikkhave, bhikkhuno sukhā vedanā dukkhato diṭṭhā hoti, dukkhā vedanā sallato diṭṭhā hoti, adukkhamasukhā vedanā aniccato diṭṭhā hoti; ayaṁ vuccati, bhikkhave,
これは世尊によって説かれたものである。尊師・阿羅漢によって説かれたと、かく我れは聞けり。
「比丘たちよ、三つの受(ヴェーダナー)がある。ここにおいて、次のように説かれる。いかなるものが三つであるか。楽受(スカー・ヴェーダナー)、苦受(ドゥッカー・ヴェーダナー)、不苦不楽受(アドゥッカマスカー・ヴェーダナー)である。
比丘たちよ、楽受は苦(ドゥッカ)として見られるべきである。苦受は矢(サッラ)として見られるべきである。不苦不楽受は無常(アニッカ)として見られるべきである。
比丘たちよ、比丘にとって、楽受が苦として見られ、苦受が矢として見られ、不苦不楽受が無常として見られるとき――比丘たちよ、この者こそが……と呼ばれるのである。」
⚠ 出家者向けの文脈
仕事
イティヴッタカ
趣旨一致
長
Ekakanipāta Dutiyavagga Paṭhamasekhasutta Vuttañhetaṁ bhagavatā vuttamarahatāti me sutaṁ: “Sekhassa, bhikkhave, bhikkhuno appattamānasassa anuttaraṁ yogakkhemaṁ patthayamānassa viharato ajjhattikaṁ aṅganti karitvā nāññaṁ ekaṅgampi samanupassāmi yaṁ evaṁ bahūpakāraṁ yathayidaṁ, bhikkhave, yoniso manasikāro. Yoniso, bhikkhave, bhikkhu manasi karonto akusalaṁ pajahati, kusalaṁ bhāvetī”ti. Etamatthaṁ bhagavā avoca. Tatthetaṁ iti vuccati: “Yonisomanasikāro, dhammo sekhassa bhikkhuno; Natthañño evaṁ b
# イティヴッタカ 第一集・第二章 第一「有学経」
これは世尊によって説かれたことである。阿羅漢(あらかん)によって説かれたと、私は聞いた。
「比丘たちよ、有学(うがく・sekha)の比丘が、いまだ心の目的を達せず、無上の安穏(yogakkhema)を求めて住するにあたり、内なる要素(ajjhattika-aṅga)として、これほどに大きな利益をもたらすものを、私はほかに一つとして見出さない。すなわち、比丘たちよ、如理作意(にょりさくい・yoniso manasikāra)がそれである。比丘たちよ、如理作意をなす比丘は、不善を捨て、善を修める」と。
この義(こころ)を世尊は説きたもうた。ここにおいて、次のように説かれる。
如理作意(yonisomanasikāra)は、
有学の比丘にとっての法(のり)。
これほどに大きな利益をもたらすものは、
ほかに何もない——と。
⚠ 出家者向けの文脈
仕事
イティヴッタカ
趣旨一致
長
Dukanipāta Paṭhamavagga Ātāpīsutta Vuttañhetaṁ bhagavatā vuttamarahatāti me sutaṁ: “Anātāpī, bhikkhave, bhikkhu anottāpī abhabbo sambodhāya, abhabbo nibbānāya, abhabbo anuttarassa yogakkhemassa adhigamāya. Ātāpī ca kho, bhikkhave, bhikkhu ottāpī bhabbo sambodhāya, bhabbo nibbānāya, bhabbo anuttarassa yogakkhemassa adhigamāyā”ti. Etamatthaṁ bhagavā avoca. Tatthetaṁ iti vuccati: “Anātāpī anottāpī, kusīto hīnavīriyo; Yo thinamiddhabahulo, ahirīko anādaro; Abhabbo tādiso bhikkhu, phuṭṭhuṁ sambodhimu
これは世尊によって説かれたものであり、阿羅漢によって説かれたものであると、私は聞いた。
「比丘たちよ、熱勤(ātāpī)なく、慚愧(ottāpī)なき比丘は、正覚(sambodhi)を得ること能わず、涅槃(nibbāna)を得ること能わず、無上の安穏(anuttara yogakkhema)を証すること能わない。比丘たちよ、しかるに熱勤あり、慚愧ある比丘は、正覚を得ること能い、涅槃を得ること能い、無上の安穏を証すること能うのである。」
世尊はこのように仰せられた。ここにおいて、さらにこのように語られる。
熱勤なく、慚愧なく、
懈怠にして精進の乏しき者、
惛沈・睡眠(thīnamiddha)に深く沈み、
恥を知らず、敬いなき、
かかる比丘は、
正覚に触れること、よく能わじ。
⚠ 出家者向けの文脈
経典データの出典: SuttaCentral(CC0ライセンス)