🔖 ブックマーク機能はLINEログインで利用できます
💬 AIブッダに相談
10,029
偈句数
9,999
日本語訳あり
9,982
パーリ原文
経典 19
テーマ 20
該当 47
すべて
智慧 4354
老い 931
苦しみ 772
正念 695
怒り 356
執着 350
死 350
業・因果 346
幸せ 337
自己 244
人間関係 243
家族 234
不安 168
仕事 165
渇愛 147
慈悲 115
無常 111
孤独 45
空 43
感謝 23
経典: スッタニパータ
✕ クリア
渇愛
スッタニパータ
趣旨一致
長
Na kāmakāmā alikaṁ bhaṇanti. Etesu giddhā viruddhātipātino, Niccuyyutā pecca tamaṁ vajanti ye; Patanti sattā nirayaṁ avaṁsirā, Esāmagandho na hi maṁsabhojanaṁ. Na macchamaṁsānamanāsakattaṁ, Na naggiyaṁ na muṇḍiyaṁ jaṭājallaṁ; Kharājināni nāggihuttassupasevanā, Ye vāpi loke amarā bahū tapā; Mantāhutī yaññamutūpasevanā, Sodhenti maccaṁ avitiṇṇakaṅkhaṁ. Sotesu gutto viditindriyo care, Dhamme ṭhito aj
欲(かま)を求める者どもは、虚言を語らぬ。
されどそれらに貪(むさぼ)り執(とら)われ、互いに争い傷つけ合う者は、
常に争いの中にあり、死してのち闇(やみ)へと赴く。
衆生(しゅじょう)は頭を下にして地獄(ナラカ)へと堕ちてゆく。
これぞ穢れ(アーマガンダ)の真の姿——肉食にあるのではない。
魚肉を断つ不食の行にあるのでもなく、
裸形(らぎょう)にあるのでもなく、剃髪(ていはつ)にあるのでもなく、
結髪(けつはつ)と泥の塗布にあるのでもなく、
粗き獣皮(じゅうひ)を纏うにあるのでもなく、
火を祀る祭祀(さいし)への奉仕にあるのでもなく、
この世においていかに多くの不死(ふし)を求める苦行(くぎょう)を積もうとも、
真言(まんとら)と供養(くよう)と祭祀と季節の礼をもってしても、
それらは疑惑(かんしん)を渡り切れぬ凡人(ぼんじん)を清めることはできぬ。
諸根(しょこん)を守り、根(こん)を知り覚めてあゆみ、
法(ダンマ)のうちに立ちて……
⚠ 希死念慮の場面では使わない
渇愛
スッタニパータ
趣旨一致
長
laddhā macco yadicchati. Tassa ce kāmayānassa, chandajātassa jantuno; Te kāmā parihāyanti, sallaviddhova ruppati. Yo kāme parivajjeti, sappasseva padā siro; Somaṁ visattikaṁ loke, sato samativattati. Khettaṁ vatthuṁ hiraññaṁ vā, gavāssaṁ dāsaporisaṁ; Thiyo bandhū puthu kāme, yo naro anugijjhati. Abalā naṁ balīyanti, maddantenaṁ parissayā; Tato naṁ dukkhamanveti, nāvaṁ bhinnamivodakaṁ. Tasmā jantu
死すべき人は、欲するものを得る。
しかし、欲望(カーマ)に引かれ、渇愛(チャンダ)を生じた者にとって、
その欲望がことごとく損なわれるとき、
矢に射抜かれた者のごとく、苦しみに打たれる。
欲望(カーマ)を遠ざける者は、
蛇が足で頭を踏まれるを避けるように、
この世における執著(ヴィサッティカー)を、
気を保ちつつ、よく乗り越えていく。
田畑、土地、黄金、
牛馬、奴隷、下人、
妻女、親族、さまざまな欲望——
これらに貪り執する人は、
弱き者を力あるものが圧し、
苦難がその者を踏みにじる。
かくして苦(ドゥッカ)がその者に従い来ること、
破れた船に水が浸み入るがごとし。
ゆえに人は……
⚠ 初学者には難しい
渇愛
スッタニパータ
趣旨一致
長
pucchito uttamaṁ naraṁ”. Taṁ brūmi upasantoti, Kāmesu anapekkhinaṁ; Ganthā tassa na vijjanti, Atarī so visattikaṁ. Na tassa puttā pasavo, Khettaṁ vatthuñca vijjati; Attā vāpi nirattā vā, Na tasmiṁ upalabbhati. Yena naṁ vajjuṁ puthujjanā, Atho samaṇabrāhmaṇā; Taṁ tassa apurakkhataṁ, Tasmā vādesu nejati. Vītagedho amaccharī, Na ussesu vadate muni; Na samesu na omesu, Kappaṁ neti akappiyo. Yassa loke
「最高の人について問われた」
わたしはかれを〈寂静に達した者〉(ウパサンタ)と呼ぶ——
愛欲(カーマ)に対して、もはや顧みることなく、
かれには結縛(ガンタ)が存在せず、
渇愛(ヴィサッティカー)を渡り超えた者と。
かれには子もなく、家畜もなく、
田畑も土地も存在せず、
自我(アッター)があるとも、自我がないとも、
かれにおいては見出されることがない。
世間の凡夫(プトゥッジャナ)たちが、
あるいは沙門・婆羅門(サマナ・バラモン)たちが、
かれについて語るであろうそのことも、
かれの前に置かれることなく、
それゆえかれは議論(ヴァーダ)の中で動ずることがない。
貪欲(ゲッダ)を離れ、物惜しみ(マッチャリヤ)なく、
牟尼(ムニ)は優れた者たちの中でも語ることなく、
等しき者たちの中でも、劣れる者たちの中でも語らず、
戯論(カッパ)を起こさない——かれは戯論なき者(アカッピヨ)であるがゆえに。
この世において……
渇愛
スッタニパータ
趣旨一致
長
yathā saṁvijitaṁ mayā. Purāṇaṁ nābhinandeyya, Nave khantiṁ na kubbaye; Hiyyamāne na soceyya, Ākāsaṁ na sito siyā. Gedhaṁ brūmi mahoghoti, Ājavaṁ brūmi jappanaṁ; Ārammaṇaṁ pakappanaṁ, Kāmapaṅko duraccayo. Saccā avokkamma muni, Thale tiṭṭhati brāhmaṇo; Sabbaṁ so paṭinissajja, Sa ve santoti vuccati. Sa ve vidvā sa vedagū, Ñatvā dhammaṁ anissito; Sammā so loke iriyāno, Na pihetīdha kassaci. Yodha kāme
かくのごとく、わたくしは感得した。
古きものに執着することなく、
新しきものに望みをかけることなく、
失われゆくものを嘆かず、
また虚空に縛られることもなく。
渇愛(gedha)を、わたくしは大いなる洪水と説く。
執念(jappana)を、わたくしは激流と説く。
対象への思念(pakappana)、
欲望の泥沼(kāmapaṅka)は、
なかなか渡り越えがたい。
聖者(muni)は真実から離れることなく、
婆羅門(brāhmaṇa)は陸の上に立つ。
一切を捨て離れたその人こそ、
まことに「寂静なる者」と呼ばれる。
かの人はまことに知者(vidvā)、明知を究めた者(vedagū)、
法(dhamma)を知りて何ものにも依らず、
この世を正しく歩みゆき、
いかなる者をも羨むことがない。
およそこの世において諸欲(kāma)を——
⚠ 自己責任論に誤解されやすい
渇愛
スッタニパータ
趣旨一致
長
Atha kho so jarasāpi miyyati. Dhono na hi tena maññati, Yadidaṁ diṭṭhasutaṁ mutesu vā; Nāññena visuddhimicchati, Na hi so rajjati no virajjatīti. Jarāsuttaṁ chaṭṭhaṁ. Socanti janā mamāyite, Na hi santi niccā pariggahā; Vinābhāvasantamevidaṁ, Iti disvā nāgāramāvase. Maraṇenapi taṁ pahīyati, Yaṁ puriso mamidanti maññati; Etampi viditvā paṇḍito, Na mamattāya nametha māmako. Supinena yathāpi saṅgataṁ,
さて、かれは老いにおいても死ぬ。
洗われた者(ドーナ)は、そのことによって思い量らない、
すなわち、見られたもの・聞かれたもの・感知されたものにおいて。
かれは他のものによって清浄を求めない。
まことにかれは貪ることもなく、また離貪することもない。
――「老いの経」第六、終わり。
人々は、わが物と愛着するものゆえに悲しむ。
まことに、常住の所有物なるものは存在しない。
この世にあるものはすべて、離れ別れることを本質とする(ヴィナービャーヴァ)。
このように見て、家に住まうことなかれ。
死によっても、それは捨てられる、
「これはわがものなり」と人が思い量るものは。
これをも知って、賢者(パンディタ)は、
わがものへの執着(マーマッタ)に向かって傾くことなかれ。
夢(スピナ)の中で出会ったものと同じく、
⚠ 希死念慮の場面では使わない
渇愛
スッタニパータ
趣旨一致
長
Pādāpi naṁ samphusituṁ na icche”. Okaṁ pahāya aniketasārī, Gāme akubbaṁ muni santhavāni; Kāmehi ritto apurakkharāno, Kathaṁ na viggayha janena kayirā. Yehi vivitto vicareyya loke, Na tāni uggayha vadeyya nāgo; Jalambujaṁ kaṇḍakavārijaṁ yathā, Jalena paṅkena canūpalittaṁ; Evaṁ munī santivādo agiddho, Kāme ca loke ca anūpalitto. Na vedagū diṭṭhiyāyako na mutiyā, Sa mānameti na hi tammayo so; Na kamm
「その足に触れることさえ、わたしは望まぬ」と。
住処(おか)を捨て、定まれる宿なく歩む者、
村において牟尼(むに)は親しき交わりを結ばず、
欲楽(かーま)を離れ、前に立つものなく、
いかでか人と争いを起こすことがあろう。
世において、それらのものを離れて歩むならば、
龍(なーが)はそれらを執り取りて語ることなし。
水と泥とに染まらぬ蓮(はちす)のごとく、
棘ある水に生まれし花のごとく——
かくのごとく牟尼は安らけき言葉を語り、貪らず、
欲楽においても世においても、染まることなし。
ヴェーダに通じた者(ヴェーダグー)は見解によらず、
また思量(おもいはかり)によらず、
彼は慢(まーな)に赴かず、彼はそれに作られたる者にあらず、
業(かんま)によっても……
渇愛
スッタニパータ
趣旨一致
長
Yaṁ nissito oghamimaṁ tareyyaṁ”. “Ākiñcaññaṁ pekkhamāno satimā, (upasīvāti bhagavā) Natthīti nissāya tarassu oghaṁ; Kāme pahāya virato kathāhi, Taṇhakkhayaṁ nattamahābhipassa”. “Sabbesu kāmesu yo vītarāgo, (iccāyasmā upasīvo) Ākiñcaññaṁ nissito hitvā maññaṁ; Saññāvimokkhe parame vimutto, Tiṭṭhe nu so tattha anānuyāyī”. “Sabbesu kāmesu yo vītarāgo, (upasīvāti bhagavā) Ākiñcaññaṁ nissito hitvā mañña
---
「何かに依りどころを求めつつ、この激流を渡ることはできないだろうか」
「無所有(ākiñcañña)を観じながら、念(sati)を保て、
(ウパシーヴァよ、と世尊は仰せられた)
『無し』と観ずることに依りどころを置き、激流を渡れ。
諸々の欲(kāma)を捨て、諸々の語りから離れ、
渇愛の滅尽(taṇhākhaya)を昼夜観じよ」
「あらゆる欲において貪りを離れた者が、
(と尊者ウパシーヴァは申し上げた)
無所有に依りどころを置き、他の一切を捨て去り、
想からの解脱(saññāvimokkha)、その最高のものにおいて解脱せし者は、
そこに留まり、もはや輪廻を追い求めることなきや」
「あらゆる欲において貪りを離れた者は、
(ウパシーヴァよ、と世尊は仰せられた)
無所有に依りどころを置き、他の一切を捨て去り――」
経典データの出典: SuttaCentral(CC0ライセンス)