律蔵 大犍度 段落32
Saññā ca hidaṁ, bhikkhave, attā abhavissa, nayidaṁ saññā ābādhāya saṁvatteyya, labbhetha ca saññāya— ‘evaṁ me saññā hotu, evaṁ me saññā mā ahosī’ti. Yasmā ca kho, bhikkhave, saññā anattā, tasmā saññā ābādhāya saṁvattati, na ca labbhati saññāya— ‘evaṁ me saññā hotu, evaṁ me saññā mā ahosī’ti. Saṅkhārā anattā. Saṅkhārā ca hidaṁ, bhikkhave, attā abhavissaṁsu, nayidaṁ saṅkhārā ābādhāya saṁvatteyyuṁ, labbhetha ca saṅkhāresu— ‘evaṁ me saṅkhārā hontu, evaṁ me saṅkhārā mā ahesun’ti. Yasmā ca kho, bhikkhave, saṅkhārā anattā, tasmā saṅkhārā ābādhāya saṁvattanti, na ca labbhati saṅkhāresu— ‘evaṁ me saṅkhārā hontu, evaṁ me saṅkhārā mā ahesun’ti. Viññāṇaṁ anattā.
想(サンニャー)は無我(アナッタ)である。
比丘たちよ、もし想が我(アッタ)であるならば、想は悩み(ābādha)に転ずることはなかったであろう。また想について、「我が想はかくあれ、我が想はかくあらざれ」と、かなえられることもできたであろう。しかるに、比丘たちよ、想は無我であるがゆえに、想は悩みに転じ、また想について、「我が想はかくあれ、我が想はかくあらざれ」と、かなえられることはできないのである。
行(サンカーラ)は無我である。
比丘たちよ、もし諸行が我であるならば、諸行は悩みに転ずることはなかったであろう。また諸行について、「我が諸行はかくあれ、我が諸行はかくあらざれ」と、かなえられることもできたであろう。しかるに、比丘たちよ、諸行は無我であるがゆえに、諸行は悩みに転じ、また諸行について、「我が諸行はかくあれ、我が諸行はかくあらざれ」と、かなえられることはできないのである。
識(ヴィンニャーナ)は無我である。
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経典テキストの出典: SuttaCentral(CC0ライセンス)。英訳: Bhikkhu Sujato師(経蔵)/ Bhikkhu Brahmali師(律蔵)。日本語訳はAI生成による参考訳です。