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自己 中部経典 趣旨一致

中部経典(MN148 §10.31–10.7)

‘Taṇhā attā’ti yo vadeyya taṁ na upapajjati. Taṇhāya uppādopi vayopi paññāyati. Yassa kho pana uppādopi vayopi paññāyati, ‘attā me uppajjati ca veti cā’ti iccassa evamāgataṁ hoti. Tasmā taṁ na upapajjati: ‘taṇhā attā’ti yo vadeyya. Iti cakkhu anattā, rūpā anattā, cakkhuviññāṇaṁ anattā, cakkhusamphasso anattā, vedanā anattā, taṇhā anattā. Tasmā taṁ na upapajjati: ‘cakkhu attā’ti yo vadeyya. Iti cakkhu anattā. ‘Rūpā attā’ti yo vadeyya taṁ na upapajjati.
If anyone says, ‘craving is self,’ that is not tenable. The arising and vanishing of craving is evident, so it would follow that one’s self arises and vanishes. That’s why it’s not tenable to claim that craving is self. So the eye, sights, eye consciousness, eye contact, feeling, and craving are not self. That’s why it’s not tenable to claim that the eye is self. So the eye is not self. If anyone says, ‘sights are self,’ that is not tenable.
「渇愛(タンハー)は自己(アッタ)である」と語る者があるならば、それは成り立たない。渇愛の生起と滅尽は明らかに知られるのであるから、そのように説く者には「わが自己は生じ、また滅する」という帰結が生じてしまう。それゆえ、「渇愛は自己である」と語ることは成り立たないのである。 かくして、眼(チャックhu)は無我(アナッタ)であり、諸々の色(ルーパ)は無我であり、眼識(チャックフ・ヴィンニャーナ)は無我であり、眼触(チャックフ・サンパッサ)は無我であり、受(ヴェーダナー)は無我であり、渇愛は無我である。それゆえ、「眼は自己である」と語ることは成り立たない。かくして眼は無我である。「諸々の色は自己である」と語る者があるならば、それもまた成り立たない。
関連テーマ: 自己 渇愛 智慧
導線タグ: 自己とは何か,アイデンティティ,自分を見失う,執着からの解放,無我,自己喪失,本当の自分

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収録偈句
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経典
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テーマ
CC0
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経典テキストの出典: SuttaCentral(CC0ライセンス)。英訳: Bhikkhu Sujato師(経蔵)/ Bhikkhu Brahmali師(律蔵)。日本語訳はAI生成による参考訳です。

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