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自己 中部経典 趣旨一致

中部経典(MN43 §33.2–35.3)

Idhāvuso, bhikkhu araññagato vā rukkhamūlagato vā suññāgāragato vā iti paṭisañcikkhati: ‘suññamidaṁ attena vā attaniyena vā’ti. Ayaṁ vuccatāvuso, suññatā cetovimutti. Katamā cāvuso, animittā cetovimutti? Idhāvuso, bhikkhu sabbanimittānaṁ amanasikārā animittaṁ cetosamādhiṁ upasampajja viharati. Ayaṁ vuccatāvuso, animittā cetovimutti. Ayaṁ kho, āvuso, pariyāyo yaṁ pariyāyaṁ āgamma ime dhammā nānātthā ceva nānābyañjanā ca. Katamo cāvuso, pariyāyo yaṁ pariyāyaṁ āgamma ime dhammā ekatthā byañjanameva
It’s when a mendicant has gone to a wilderness, or to the root of a tree, or to an empty hut, and reflects like this: ‘This is empty of a self or what belongs to a self.’ This is called the release of the heart through emptiness. And what is the signless release of the heart? It’s when a mendicant, not focusing on any signs, enters and remains in the signless immersion of the heart. This is called the signless release of the heart. This is the way in which these things differ in both meaning and
友よ、ここに一人の比丘(びく)がいる。彼は林野に赴き、あるいは樹の根元に赴き、あるいは空屋に赴いて、次のように深く観察する。「これは自我(アッタ)において空であり、自我に属するものにおいて空である」と。友よ、これを空性(スンニャター)による心の解脱(チェートーヴィムッティ)と呼ぶ。 では友よ、無相(アニミッタ)による心の解脱とは何であるか。友よ、ここに一人の比丘がいる。彼はあらゆる相(ニミッタ)に心を向けることなく、無相なる心の三昧(チェートーサマーディ)に入り、そこに住する。友よ、これを無相による心の解脱と呼ぶ。 友よ、これが、これらの事柄が意味においても文言においても異なるとされる道理(パリヤーヤ)である。では友よ、これらの事柄が意味においては同一であり、ただ文言においてのみ異なるとされる道理とは、いかなるものであるか。
関連テーマ: 自己 正念 智慧
導線タグ: 自己とは何か,アイデンティティ,自分を見失った,執着を手放す,無我,空,瞑想,自分探し
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経典テキストの出典: SuttaCentral(CC0ライセンス)。英訳: Bhikkhu Sujato師(経蔵)/ Bhikkhu Brahmali師(律蔵)。日本語訳はAI生成による参考訳です。

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